人生の幸せという深いテーマなのに、結局スイーツが好きということしか語っていない話
人生における成功。つまり幸せってなんだろう、と時折考える。
出世?
家族よりも仕事優先。それが一家の大黒柱として当たり前の態度であるべきだ。そんなガチガチの古くさい考え方の父は、確かに出世が早かったし、一応社長にもなったらしい。
けれど、誰よりも人生に不満を持って生きているように見える。
娘として、父の趣味と言えることが何一つ思いつかない。
楽しそうにしているところを、見たことが無い。
友達が多いこと?
働いた経験がほぼ無く、大人の習い事などに行くことすら無い母は、話す相手といえば家族くらいしかいない。昔の友人の話題が上ることはあっても実際に会う機会はほぼ皆無。じゃあ人生に退屈しているかといえば、わりと幸せそうだ。
私が自分で言うのも気恥ずかしいのだけれど、母は娘のことが、つまり私のことが滅茶苦茶好きだ。
私が「今日は美味しいものを食べたよ」なんて嬉しそうに話すと、最高に幸せそう。大好きなアイドルを推す時のような、盲目的で無条件の愛を注いでくれる。
その愛が重たいと思ったことは、正直ある。
けれど、「返報性の法則」というやつだろうか。
そこまでの愛情を向けられて、「嫌い」の感情を返すことはできなかった。
結果、「私も母のことが好きだし、その母が幸せになるために私が幸せになる」という態度に落ち着き、実際そういう生き方がお互いにハッピーだった。
つまりは友達は数じゃない。
少数でも推しや大切な人がいれば楽しい、ということになる。
とはいえ、私の身近な人がそうであるからといって、それがたったひとつの真実でないことはよく分かっている。
出世することが喜びである人も、友人の数が幸せの指標となっている人も、世の中にはたくさんいる。
私は――、私の幸せは。
最近、自分の仕事になんだか違和感があって、沈んでしまうことが多い。けれどスイーツの話をしている時だけは超楽しそうになる、らしい。
自分では気が付かないのだけれど、言われてみればそんな気もする。
好きになる程、「あ、やべえ。自分これ好き過ぎるわ」と身に染みて感じる瞬間が増えていく。
まだ「チョコってなんだか良いな」と思い始めたばかりの頃。
GODIVAで2,000円分くらい買うのにも、躊躇った。
チョコレートの祭典サロン・デュ・ショコラで、ひとつの店舗に5,000円以上使った。そして何店舗も、ハシゴする。
今までは備忘録でしかなかった写真を、綺麗に撮るという魅力を覚えた。
ボンボンショコラ専用のカッターを買って、ボンボンショコラひとつの断面まで撮るようになった。
ネットニュースで取り上げられていて「いいな」と思ったチョコを、わざわざ買いに行くことが当たり前になった。
説明書まで撮ったりして、「美味しい~!」だけでなく「何を食べたのか」を理解して、浸りながら食べる。
和と洋の融合など、ユニークなコンセプトのモノを食べてみたいという好奇心が溢れ出す。
値段はさておき「ナニコレやばい凄い食べてみたい」という欲求を優先するようになった。
SNSで誰かの投稿を見て、欲しいと思ったら翌日にも足を運ぶ。
やべえ...
いつだって行きたい、大好きなお店ができる。
何度も来ているけれど、また来たいな、というか来る、という次回への決意。
アイテムを持っているだけでも幸せ過ぎる。
限定は、仕事を休んだり早めに切り上げてでも行きたい。
産地別の食べ比べ。楽しい。
大人買いで全種欲しくなる。
大人買い、どころかいっぱい買う。とにかくいっぱい。
普段のカフェ巡りは2店くらいで留めるのだけれど、誘惑に負けて3店舗に突入。
ああ、もう...
もう...
うぎゃあああ、好きだと思う瞬間。
代表的な気持ちを数個だけ挙げられるかな、と思ったのだけれど、無限にあるわ。100個くらい余裕でリストにできそうだ。
好きだ...好き。
Makuakeというクラウドファンディングのサイトを何度か利用している。
見事にジャンルが食に偏っている、というか全部そう。
来週、西麻布に会員制のフルーツバーがオープンするらしい。
入会金3万円、年会費1万円、個々のパフェは5,000円くらいする。
......応募しちゃった、てへ。
なんとなく好きかも、くらいの昔なら、絶対に参加しなかった。
自覚があるからこその購入。そして購入して、やっぱり好きだなあ、と再確認する。
おっと、「幸せ」の話が、いつの間にか「好き」の話にすり変わっている。でも、良いのか。
私にとっての「幸せ」は、「好き」の先、いや、中にあるのだから。
幸せを語るためには、好きを語らなければならない。
人生には、そりゃあ辛苦もつきものだけれど、振り返った時、できるだけ幸せ色に見えるように。
ひとつひとつの「好き」を丁寧にすくい上げていく。
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