ちょこ
久しぶりのnoteとなりました。 約7ヶ月ぶりのようです。 過去の記事を少しだけ自分で読んだりしていましたが、率直に言うと 今よりも辛そうで真っ暗な中にいる、そう感じました。 今わたしは33歳という年齢になりました。 過去を振り返ってみても、本当にダサいなあと感じることが多く、うまくいかないこともたくさんありました。学生生活も、社会人になってからも、失敗が多く挫折もとても多かったです。 「どうして誰もわたしに教えてくれなかったんだろう。」 この言葉を何度も繰り返して
いつのまにか嘘つきになった自分 「自分に正直に生きる!」 「自分らしく生きる!」 そう心に決めたはずなのに、気づいたら嘘ばかりつくようになっていた。 遊びたくない人と遊んだり 本当は好きじゃない仕事を好きと言ったり やりがいなんてなにひとつないのにあると言ったり 満たされているように見せかけたり 一体なんで、そんなことばかりしていたのか。 残ったわたしは嘘まみれだった。 どんなに幸せに見せれていたとしても、幸せだと思われていたとしても、なにも嬉しくなかった。 こ
「自分を変えること」 きっとそんなに簡単じゃない。今までの育ち方とか、考え方とか、固定されたものはたくさんある。そこから「変えなければいけないもの」というのが登場する。なぜなら今の自分→理想の自分になりたいと思っているから。それには、今のままではもちろん何も変わらないから、変えていく必要があると思う。 わたしは、変わりたいと思っていても、いつもその気持ちが甘く(弱く)変わることが出来ずにいる。だから、絶賛立ち止まり中だ。そのことについて書いてみようと思う。 変わりたいと
静かな土曜日のお昼過ぎ。 心は少し、曇っている気がします。 人生は、なんだか重たいことばかり起こるときもあるんだな、と。 自分の心や頭の中、そして、自分が知っている自分自身と、現実の自分自身とのギャップに少し苦しんだりしている。 「自分らしく生きればいい」という言葉はどこにいったものかと。少しというかだいぶ辛くしんどくなったりする。 毎日が楽しくなくなってしまった理由は、わかっているはずなのに、何も変えられることができていないのは、そう、「何もしていないから」なんだと
久しぶりのnoteになりました。 全てのことに対して鈍感になっていました。マスクをつけることが多くなり、無意識のうちに無表情になる回数が増えたかもしれません。 そんな中でも、スマホとパソコンはわたしのお友達で、フリック入力やキーボードを打てば、いつしか楽しい世界につれていってくれるものでした。(今でもそうですが) 無意識に、無意識に、いや…気づいているかもしれないけれど、夜中に鏡で自分と向き合うと、目が真っ赤なことに気がついた。 「あ、これは、、、」 と、かなりの時間
優しさからか、周りを気にしてだからか、「救いたい」とあなたは言う。 「救おう」とすればするほど空回り、うまくいかないでしょう。 「救おう」としなくても、そばにいるだけでわたしは救われている。なにもしなくて、よかったりする。 人間に生まれて言葉を取得し、気持ちを表す方法をいくつか知っている。お金を稼いで、ものを買う、そんな方法もみんな知っている。ものでよろこぶことがある、ということも知っている。 人を喜ばすにはいくつか方法がある。救うにもいくつか方法がある。でもわたしは
2021年、4月に入り2週間ちょっとが経過した。 気づけばわたしは、雨の日を待つようになっていた。 雨より晴れがすきなのはわかってる。 雨の日はめんどくさいことが多いのも知っている。 でもなぜか、わたしは雨の日を待つようになった。 そして雨が降れば、わたしはうれしくなった。 1日1日。 ものすごい早さではじまって、ものすごい早さで終わっていく。 することを決めなければ、なにもせず終わっていくことを知った。 そしてもう1つ、自分でいることは時にとても苦しいのだと嫌なほど思い知
マイノリティ。 「少数派」という意味があります。 あなたは、マイノリティですか? それとも、マジョリティ(多数派)ですか? 本当はマイノリティだけど、隠して生きている人もたくさんいると思います。大人になって、1つ1つ年齢を重ねて知りました。 マイノリティで生きることは、ときにとても大変で、ときにとてつもなく、苦しいのだと。そしてその大変さや苦しさは、なかなか見つけてもらうことができません。それはやはり、圧倒的に人が少ないから、少数派であるから。単純に声が大きくならないからだ
「この世界には自分の力で変えられないことってたくさんあるんだなぁ。」 年齢を重ねる度に、そう思うことは1つ、1つと増えていった。でもむかしは、納得ができなくて変えてやる!ってジタバタしていろいろ行動しようとしたり、表現することに時間を使っていた。動いているときのほうが、わたしらしかった。かっこいいとはいえないほど、必死で、周りが見えていなくて。でも、あのときのわたしは、やりたいことが明確にあって、それをこなしていくことが楽しくて、達成感で、生きていてたのしいと感じていたと思
わたしは自分が嫌いです。無理に好きになろうとしても、辛いだけでした。何回も挑戦したんです、好きになろうと。 でも、 「あなたは自分のこと好きですか?」 という問いに 「はい」 と答えることはできずにいます。 自分を好きにならなければいけませんか?答えは・・・ 「別に、自分のことを好きだろうが嫌いだろうが、どっちでも生きていけるからどっちでもいいよ」 でした。 確かに、自分のことを嫌いだろうが、好きだろうが、どっちでも生きているんだな、ということに気づきました
わたしは中学生の頃から自分を痛めつける癖があった。 心や頭がモヤモヤして、自分に苛立ち、憎くなった。 周りも憎かった。生きているけど、全てに音がない感じ。今思い返せば全てがだいたい(だいたいね)愛おしくも思えるのに、当時は憎くてたまらなかった。自分の狭い思考や視点からはこの世の中の広さには気づけない、素晴らしさには気づけなかった。だから、中学生あたりの年齢で、空の青さに気づいて、風の心地よさに気づいた人は、本当に羨ましくて、どんな気持ちで毎日を送っているのだろうと思ったりす
ふと思うことがある。 なんでこの人はこんなにもためになる文章が書けるんだろうって。 こんなにも指示されてこんなにもいいねがつく、これってなんなんだろうって。 間違いなく、めちゃくちゃ考えている。1日1日過ぎていく中で、大量に考えている。わたし今考えているって気づかないくらいに当たり前のように1つ1つの物事や生き方に対して、自分に対して考えている。向き合っている。ボーーーーーっと生きてあんなに文章は生まれない気がする。 ボーーーーーっとしているときもあるし、ボーーーーーっ
見切り発車で見つけるやりたいことんんん、書きたい、何かやりたい、わたしも何かを成し遂げてみたいいい! そう突然思ったことがある。だいたい退屈な時で、何もすることがない(と思っている)もしくは何もやる気が起きない負のループに陥っている、頭でっかちになっている時だと思う。 パソコンがあるのだから、スマホがあるのだから、何かしらすることはできるんだろう。昔からSNSはよく使っていた。思い返すと、今の時代に限らず、昔から承認欲求というのはつきまとっていたことに気がつく。 わたし
こんばんは。 青井ベリーです。最近ネット上で使う名前を変えました。全く1から考え決めたわけでもなく、前に使っていたことがある名前です。 その頃は、また創作活動を再開しようと意気込み、とあるコミュニティに参加させて頂いていました。でも足元不安定だった(ことにあまり自覚なかったので本当にヤヴァイ)のもあり、うまく継続することができませんでした。そしてその場所を離れ、いろいろあって今に至ります。 継続できなかったことは、わたしにとっては急所に当たるようなもので、えぇえぇ、クリ
絶望したときにやったことををまとめてみました。 参考程度にどうぞ!(実際にやったものばかりです。) ■□■□アクション編■□■□●同じような人を探す(自分一人が悩んでいるわけではないと気づく) ●一度全てを諦めてみる(自分を許す) ●なんでもいいから「やりたいな〜」と思ったことをやる(小さなワクワクを体験する) ●おもしろ動画、励まされる動画をYouTubeで探して見る ●メンタリストDAIGOさんの動画を見て、科学的に現状を見る(一部有料) ●DJあおいさんのブ
p.s SNSでありとあるゆる世界が可視化されました。 それによって無意識に自分と他人を比べるようになり、昔よりも劣等感を抱きやすい世界になりました。 劣等感を抱え続けると、自分らしく生きる以前に、心が病気になってしまいます。 劣等感を抱いてしまうことは仕方ないと思うけど、 「自分は何が大切で、何をしているときに幸せと感じるのか」を明確にしてそれを知ることが、今の負のループを抜けることへの第一歩かもしれません。 自分の体は1つしかありません。体を悪くしてしまったら、何