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過去の自分に違和感を感じたとき

久しぶりのnoteとなりました。
約7ヶ月ぶりのようです。
過去の記事を少しだけ自分で読んだりしていましたが、率直に言うと

今よりも辛そうで真っ暗な中にいる、そう感じました。

今わたしは33歳という年齢になりました。

過去を振り返ってみても、本当にダサいなあと感じることが多く、うまくいかないこともたくさんありました。学生生活も、社会人になってからも、失敗が多く挫折もとても多かったです。

「どうして誰もわたしに教えてくれなかったんだろう。」

この言葉を何度も繰り返していた時期もあります。
今でも疲れているとたまによぎってしまうこともありますが。(笑)
(自己肯定感がズドンと下がったときとか)

でも、この言葉を繰り返しても特に何も変わらないみたいで、なるべくやめるようにしました。

自分でちゃんと生きるってこういうことなんだな

わたしは、過去に何度か心の調子を崩してしまうことがありました。

心の病気と言われたりもしますが、病院に行くと「うつ病」「適応障害」「自律神経失調症」などいろいろ言われました。(本当にいろいろ)

当時は「そっか、病気なんだ」と思って、治しているつもりでいました

でもわたしには、どれが正常な状態なのかがわからなかったのです。そして、わたしがいた環境の中にも、「これがどうやら正常らしい」というものに気づけるきっかけがありませんでした。(環境とは恐ろしい)

だからわたしは完治するまでに何年もかかったのです。
(うつ病に対しては「完治」という言葉ではなく「寛解」という言葉を使うそうなので完治とはまた違うかもしれませんが)

軌道修正しきった、と言えるまでには本当に数年ではすみませんでした。
わたしが当たり前だと思っていたことは決して当たり前ではなく、我慢しなければいけないと思っていたことは実は我慢しなくてもいいことだった、そのようなことがたくさんありました。

「こう思っちゃいけないんだ」ということは「別に思っていても問題ないこと」であったり。
「◯◯でなければいけない」「◯◯しなければいけない」という思いがとても強かったようでした。

物事の本質を捉えることができておらず、大切な部分が全く見えていなかったとわたしは感じています。言葉でしっかり表現することが難しいですが、人生が何層かに別れているとしたら、1番外側にある表面の部分だけでしか生きておらず、思考の深さも表面止まり、そんなイメージです。

誰かの内側、自分の内側、そして人生の内側、それらがすっぽり抜けている感覚だなと今現在は自覚できるようになりました。できるようになりましたと言うけれど、「自分が正しい」「これが100%正解だ」とは到底思えませんが。

それでも、今のわたしは自分を生きるということを始めたんだなと思うようになりました。自分を犠牲にすることの代償はこういうことか、とか、自分に嘘つくとこんな風になってしまうのかとか、いろいろ思うことはありますが、なにはともあれ今まだ自分が存在してくれてよかったと思うようにしています。生きていることだけですごいんだよと思うこともあったので、またどこかでこの話もできたらいいなとかも思っていたりします。(目の前にある幸せを幸せと気づけなかったり思えなかったりすることも人間にはあるようです。)

そう、「自分で生きる」という当たり前と思われていることができなくなっていた、そんな馬鹿みたいな話があるのか?と思われるかもしれませんが実際にあったようでした。これをかわいそうとするのか、悲劇とするのか(いまいち言葉が見つからない)よくわかりませんが、これは事実なのでここから一歩ずつ進むしかないようです。

自分と他者の境界線があやふやになるということは、ネットで見る限り起こりうる現象のようで、わたしもそんな風になったりしました。これは全くの別人格の誰かになってしまうというよりかは「自分の気持ちがわからなくなる」「本当はどうしたいのかがわからなくなる」そんな感覚に近いです、近かったです。ほぼ過去形になった話ですが。

今に至るまでとても時間がかかりましたし、どう自分の人生を作っていくのかとかやることはたくさんありそうなんです。失ったものというよりかは本当に欲しかったものを手にするという経験をもっと積まなければいけません。心から求めているもの、心からの言葉、そういったものとともにこれからを生きていくべきだと今のわたしは感じています。

自分を生きていないということはどういうことなのか、についてはきっと過去の自分と話せば教えてくれると思います。思い出すだけで心が痛いなあと思うこともたくさんありますが、無理しないよう書いていきたいなとも思っています。

過去を失敗に終わらせないために

過去に起きたことは変わらないし、自分が生まれた環境、自分自身、変えられないことというものはたくさん存在する。その変えられないものに嫌悪感を抱き苦しむことは、どうしようもなく無駄であり何も変わらないのです。むしろ、自分の心を蝕んでいく行為でした。

自分の心がボロボロになると、他者や自分の周りのなにもかもを受け入れられなくなっていく、捻くれてしまいます。差し出された優しさも、言葉も、全て受け取れなくなる、とても悲しいことが起こってしまいます。人を信用できなくなったり、なにも感じなくなったり。とても悲しい。

嘘つくのが上手になってくると、すごく仲良いように振る舞うけれど心はなにも満たされない、そんなことが起こります。そう、なにも心に残らなくなってしまうのです。心が停止状態になってしまう。

そんな日々はもう生きたくないと思います。自分を取り戻せた日がまたスタートの日です。まだ生きているのでいろいろチャレンジすることができます。

なんとなく生きるんじゃない、やりたいことが決まったらそれを目標に計画を立てて一歩一歩着実に進むんだ。今までの失敗は消えることはないけれど、同じ過ちを繰り返さないように過去から勉強してこれからを生きればいい。

今までの人間関係や環境が気持ち悪くなってしまったのなら、もう必要がないのなら自分から離れることを選ぶ。これからは自分の求めているものをしっかり掴むんだ。自分に嘘をついてしまっては、また今までと同じ人生を歩むことになってしまいます。

他者と過ごす上で、自分の気持ちだけを押し付けて生きることはまた違うけれど、自分に嘘ばかりついていてはダメだ。それは自分を大切にしていないから、誰からも大切にしてもらえなくなってしまいます。わたしはこの失敗を何回も繰り返しました。だから好きな人間関係もちゃんとできなかった。本当は人とお話することもたくさん出かけることも大好きです。いろんな景色を見たり、美味しいものを食べたりすることはとても幸せでしょう?でも隣にいる人は好きじゃなかった。だから楽しくありませんでした。

笑っているのに、心の底から笑えていませんでした。もうこんな日々は送りたくないので、過去の自分と話をし、そんな風に生きないようにいろんな手段を使ってこれからを生きようと思っています。

他者の幸せが自分の幸せではありません。自分はどうしたいのか、たくさんたくさん考えなければなりませんし、世の中にたくさんある○○してはいけないに騙されないこと、○○でなければいけないに騙されないこと。周りをよく見て、人をよく見て、世の中をよく見て。

教えてもらえなかったのなら、これから自分が自分に教えてあげればいいと思います。親からの愛情とか、心から好きな親とかそういうものはわたしにはありませんが、それでも不幸になるわけではない、そういうことなのだと思います。

自分の本当の姿で生きて話していかなければ本当に生きたい人生は送れないと今は思います。わたしにしかないものもあれば、あの人にしかないものもあるし、手に入れるタイミングは人によって違うということなのだと思います。手にできないものもたくさんあると思うし、でもじゃあどうしようかってまた考えて生きていくのだと思います。完璧主義は疲れちゃいますから。

「現実を受け入れる」と言葉でいうことはとても簡単ですが、実行できるようになるまではとても時間がかかりました。時間というものはもう戻らないですから今が1番早いのです、若いのです。だからできるだけ後悔ないようやるしかないようですね。

人間の心ってすごく複雑なのかなって思うけれど、自分を取り戻すことができたら、案外シンプルなのかもしれません。ありきたりな言葉かもしれませんが、やっぱり自分を大切にしたいです。誰かのために生きることは、自分を生きてるからできることだと思います。

嫌なこともたくさんあるけれど、自分を腐らせないために工夫して生きていきたいなって思います。もう、余計なものはポイしちゃいましょう。

読んで頂きありがとうございます。