あいつに痴話喧嘩

まだこんな場所があるのかという、古ぼけたアパートが建っている。
その一室で、マツコは夕食の準備をしていた。
今日はトミーが少し早く帰ってくる。それだけで、お惣菜を一品増やしてしまうマツコだった。
薄っぺらいベニヤの扉が開いて、トミーが入ってきた。一日働いて、汗臭くなっている。一瞬、息が詰まりそうになったが、それはこらえた。
「ただいま」
トミーがマツコに軽く口づけをした。瞬間、マツコは飛びのいた。
「痛い!痛いじゃないの!口のまわり、ザクって刺さった!汗臭いのはともかく、ヒゲくらい剃りなさいよ!」
トミーは驚いて、自分の口の周りをおそるおそる触れる。
「し、仕方ないじゃない!毎朝剃ってるのあなただって知ってるでしょう!それでも、それでも…生えてきちゃうのよ!」
「でも、私、口の周りも心も傷ついた!」
マツコは金切り声を上げて、四畳半の隅に畳んであった布団に身を投げた。突っ伏しておいおいと泣く。
それを見ていたトミーは、おもむろに服を脱ぎ、全裸になった。
「マツコ」
やさしく呼びかける。
「マツコ!」
「なによ!」
顔をあげて、目を丸くする。トミーが裸で仁王立ちになっている。ふっと微笑んで、言った。
「仲直りのぶつかり稽古、する?」
「……ばか……」
そう言いながらもマツコはしおらしく、服を脱いだ。裸になると、ゆっくりと立ち上がる。トミーが言う。
「わたしの胸に飛び込んできなさいよ」
マツコは顔を赤らめ、トミーに飛びついてく。
「どすこーい!」
トミーの張り手がマツコの顔面を捉える。ふっとばされて、畳の上に転げた。すぐに立ち上がる。トミーが胸をばしばし叩いた。
「どんと来いや!」
「おっしゃー!」
マツコは飛び上がって、トミーの胸にぶつかる。ふたりはひとつの塊になって、壁にぶつかった。穴があくのではないかという音が響く。
「うるせーんだよ!」
隣の部屋の住人が壁を叩く。
トミーとマツコはハッと我にかえり、お互いの顔を見合わせて、ふふふと笑った。
「ちょっとハッスルしすぎちゃったね」
マツコが言って、窓を開けた。
「あなた、外から丸見えよ」
トミーがたしなめたが、マツコは逆にトミーを呼んだ。
「見て」
マツコの指差す方向に顔を向けて、トミーは息を呑んだ。
「…きれい」
夕日が沈むところだった。
「私ね…」
マツコが言った。
「夕日はどこで見ても、同じ太陽が沈むだけじゃないかって言う人もいるけど、私はやっぱり二丁目の夕日が世界で一番きれいだと思うんだ」
そう言うマツコの口元に、うっすらとヒゲが生えていた。

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