見出し画像

香川ヒサ『I Wandered Lonely as a Cloud』(柊書房)

 第10歌集。2012年から2023年の作品の内603首を収める。収録された歌は日常を中心としたものである。鋭い批評眼と論理的な思考が歌の基調を成している。平成を振り返る歌、現在の日本を見つめる歌、コロナ禍の日常を詠った歌、ロシアのウクライナ侵攻を詠った歌などから作者の社会を見る視点が窺える。歌集後半の母の歌は心に沁みた。歌集最後近くに、所属する同人誌『鱧と水仙』の創刊三十周年を記念して編まれた「鱧」「水仙」の連作が収録されている。特に「水仙」の連作はイギリスのロマン派の詩人ワーズワースにつながり、この歌集のタイトルとも繋がる。イギリスへの関心が歌集の底にあると感じた。

飲み食ひをしたもの写真で見せ合ひぬ喉元いつぱいさびしさ詰めて(P15)
 携帯電話、特にスマートフォンが普及してから、自分の食べたものを写真に収める行為が多くなった。そしてそれを見せ合う行為も。そんなことをしている人たちは、楽しそうに見えながら、喉元いっぱいに寂しさを詰めていると主体は見る。そうかもしれない、と思わせる歌。

窓に寄り空を見上ぐる人あれば窓の数ほど空はあるらむ(P40)
 人は窓から空を見上げる。何を思ってか、何も思わずか。その窓ごとに空があるだろう、と主体は把握する。一つの空を窓が区切っているのではなく、窓ごとの空という捉え方だ。それは人ひとりごとに空がある、ということでもある。

サンドイッチ食べてしまへばパン屑をはたいて立てり用あるごとく(P64)
 結句で四句までが反転する。食事を終えて、さっと立ち上がる主体。まるでいそがしく次の用事に行くかのようだ。しかし結句で用が無いことが分かる。さも、忙しそうにして、何もすることは無いのに、という視線は自分自身に向けられているのだ。

久久に出会ひし人のあらといふ動きをしたる口に近づく(P91)
 久々に出会ってお互いに、はっとしたのだろう。相手の口は「あら」という形に動いた。声が出ていないのだけれど。その人に、というより、その口に近づいていく。細かい観察が細かい心の動きを表している。

ブライアン・メイのギターはよかつたな自然保護とか言ひ出す前の(P154)
    社会に対する反骨、反抗であったロックがいつの間にか社会の良心みたいになってしまった。きっかけは「バンドエイド」ぐらいか。その思想には共感するのだが、ロックスターには「いい子」になってほしくない、というか。キレキレのソロを聞かせてくれれば。

室内は24℃に保たれて昨日が母に一番遠い日(P171)
 施設に入所した母。室内はいつも快適な一定の温度に保たれて、何の心配もなく生活できる。けれど、それは楽しい暮らしなのだろうか。昨日のことが一番思い出せない。下句にリアリティがある。半世紀前のことなら楽々と細部まで思い出せるのだけれど。

祖父の撮つた母の若き日 戦時また日常として日常ありき(P197)
 それは祖父と母ではなく、父と娘だった頃。戦時だと言えど毎日戦闘があったわけではない。銃後の人々は戦時なりの日常生活を送っていた。四句結句がまさに言い得ている。娘に向ってシャッターを切る父。写真は今より特別なもので、娘は少しおしゃれをしていただろう。そんな若い娘の写真、老いた母の若き日の写真を主体は見ているのだ。

街ゆきてすれ違ふなり人間の生身の身体と生身の身体が(P199)
 今読めばそれほど強い印象を受けないかもしれない。しかし、コロナ禍では人々は「Stay Home」の号令の下に家に籠り、Zoomで挨拶していた。それでも街へ出れば他人の生身の身体とすれ違う。感染を避けようとしながら、向こうもそうしながらすれ違う。他人の生身が怖い。あの頃の体感が歌から生々しく蘇る。

就任式済んでアメリカ大統領任期四年を終へたるごとし(P202)
 時期的にバイデン大統領を指しているのだろう。大荒れの選挙を乗り越え、トランプ支持者の連邦議会乱入事件など、流血の騒ぎも超えての就任であった。就任式が終わったらこれで全部終わったように感じても仕方が無いぐらいの騒ぎだった。この歌のように感じた人は多かっただろう。しかし彼の仕事はこれからなのだ。

狼のゐることでなく狼を殺せることを教ふ童話は(P203)
 「赤ずきん」だろうか。この童話の後ろには性的暴行の匂いがちらちらする。そんな風に自分を傷つける狼がこの世にいるから警戒しなさいよ、ということを童話は一見教えているように見える。しかし、この童話の結末部分で赤ずきん自身が、おばあさんや猟師と力を合わせて狼を溺死させる。自分を傷つけたり苦しめたりする相手に反撃してもいいのだ。童話の現代的解釈であると共に、この童話を読んだ多くの現実の赤ずきんたちが「自分もそうしていいんだ」と言いたくなるような解釈だ。

柊書房 2024.4. 定価:3080円(税込み)

この記事が参加している募集