見出し画像

瀬戸夏子『白手紙紀行』

身を削って書くということ
               
 本書は「現代短歌」二〇一八年五月号から十九年七月号まで連載された読書日記である。教養という言葉があまり言われなくなって久しいが、ここにあるものは間違いなく教養だと感じた。その読書量の圧倒的な多さと選択される内容の広範さ。それに添えられる考察の深さ。短歌に限らない縦横無尽な書の選択を、追走しながら楽しむのもいいが、ここでは短歌に限って読んでみたい。

 「ただ、こういうことは言えるわね。年寄りは若者の歌を必ず読んでいます。若者は年寄りの歌を読まない」という馬場の発言、注目されるべきと思う。若者は年寄りの歌を読まない。

 読書の幅広さは、短歌に絞っても言える。馬場あき子、永田和宏のようなベテランの歌から新進の若手、さらに所属する結社以外にはあまり知られていない歌人の歌も読む。歌だけでなく、対談などでの歌人の発言にも筆は及んでいる。引用は馬場あき子の認識の鋭さを指摘した文章だが、若い世代が同世代の歌しか読まないことへの瀬戸自身の批判的視点もある。        事象の把握のしかたに共感した文章は多い。

  水は死のほとりに沿ひて流れつつ凍りし葦の根方を洗ふ   角宮悦子
作者の強い情念が歌として形を成すときに引きずられるように奇抜な比喩やはっとするようなパートが生まれているのではないか。


 角宮悦子の歌の、著者を驚かせた奇想や比喩について。先に強い情念があるという把握は、角宮の歌に限らず、一見奇抜と思われる比喩の歌を読み解く手掛かりになるだろう。情念が無いところに言葉だけ目立つ表現をしても、底の浅いものにしかならない。言葉の根底にある感情に感応することで、字句の解釈に迷う読みから抜けられるのではないか。

 こうした言葉にもまだ呪いが付着していると思う。この「個性」という言葉で、ニューウェーブの世代でも紀野恵や水原紫苑のことはたぶん簡単に片づけてしまうことができる。「個性」という例外は、時代やパラダイムシフトに与しない。

 穂村弘が今橋愛の文体へ言及した発言について。「個性」という言葉を褒めているつもりで使って、それぞれを例外扱いにし、時代の流れの中に位置づけない罪深さを追求する。ニューウェーブこそ主流であり、気には入っているがその主流に加えたくない歌人を「個性」と位置付ける、思えば穂村のそんな論法に何年馴らされてきただろう。文中にある、「呪い」の重さを思う。個別に片づけられてしまい、時代に位置づけられることのない歌人たち、その多くが女性であることも、今、考えるべき課題だろう。

 なにかが終わった、と書いて、もっともらしくものを言ったつもりになるのは恥ずかしいことだとわかってはいるけれど、「短歌研究」(二〇一九年)一月号の総力特集「平成の大御歌と御歌」を読んで、戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った。

 戦争に与した反省から戦後短歌が続いてきた経緯と、短歌は戦後も形が変わったとはいえ天皇制と深く強く結びついてきたという事実は、歌人の抱える葛藤であったはずだ。しかしそれをなし崩しにして、短歌と天皇制を順接のものとしてあっけらかんと晒してしまった「平成の大御歌と御歌」。それに言及する著者の論調は鋭い。この特集に驚いた歌人は多かったと思うが、ベテラン歌人からもあまり発言は無かったように記憶する。真っ向から意見を述べたのは瀬戸ぐらいではなかったか。
 そんな率直な姿勢を何よりも表しているのが、帯の惹句だろう。

 きれいな、誠実な表情ばかりして、わたしは無罪だという顔でものを書いてる人間には全員吐き気がする。

 相当激しい文章で、これを読んで本を手にした人も多いのではないか。この文は巧みに人の心を惹きつける。しかし、本書のその前段に当たる部分を見ると、著者が文を書くということにどれほど身を削っているかが見えてくる。
  わたしはこれまで自分の使ってきた言葉で、人間のかたちに換算すると三人分は人を殺してきたと信じているし、それは特定の三人を殺したという意味ではなくて、さまざまなわたしの言葉が直接的に間接的にただしいかたちであるいは誤解されて人やそのあいだの空気を傷つけ続けてきた結果、そ
れほどの罪は犯しているだろうと考えている、ということだ。

 

 文章を書くということは必ず人を傷つけることであり、著者はそれを痛いほど自覚している。だからこそ、人を傷つける覚悟も無しに文章を書いている人間に対して、激しい言葉が出てくる。帯に引かれた文はその気持ちが抽出されたものだろう。しかし、著者が思い描いている「人間」と、読者が思い描く「人間」は、重ならないかもしれない。
 その具体例に当たるのかは分からないが、加藤治郎について書かれたものは、具体的に文章を挙げており、論点も明確で、大いに刺激を受けた。   

  加藤治郎の「ニューウェーブの中心と周縁」という恥じらいのないタイトルの特別寄稿がある。ここしばらく歌壇を騒がせている、「ニューウェーブに女性歌人はいないのか問題」(略)およびその問いがさらに前面化した「ニューウェーブのミューズ問題」(略)と関係のないテキストであるはずがない、加藤治郎氏はこのふたつの問題両方の中心人物である、にもかかわらずその点にはとくにおおきく触れることもなく九頁もニューウェーブの話をしているところが加藤治郎氏らしい。/ 
  その都度、鮮度がよかったり、都合がよかったりする人や事象を巻き込んで実体以上に《ニューウェーブ》をおおきく見せようとする行動や言動を、もう時代や周囲は許さないということだ、(略)

 ニューウェーブという一連の運動と、本人たちがそれを何とか正史化しようとすることに纏わる欺瞞と問題点を、余すところなく突いている。ポスト・ニューウェーブの把握の仕方もまさに納得のいくものだ。この文を手掛かりにニューウェーブは位置付け直される必要があるだろう。今までこの時代前後で止まっていた感のある短歌史が、これをきっかけに書き進められる可能性も感じる。
 この一冊の最後を飾る文章であり、書くことの気迫に満ちている。文章にスピード感があり、読書日記という範疇を超え、今後も記憶されるべき、優れた時評になっている。
 本書で一つだけ残念に思ったのは、著者と歌の評が共有できなかったことだ。例として、著者が「度肝を抜かれた」と言う歌の読みを読んでみたい。  

  ビスケット無限に増えてゆくような桜並木の下の口づけ  服部真里子  

 この歌を著者は「(服部の)第一歌集の前者の歌群のような、定型と技術と比喩のバランスのぎりぎりさを持っており、緊迫感があり」と評している。第一歌集の前者の歌群、というのはこれに先立つ個所で「異様な感覚のするどさを短歌形式に隙間なく埋め込んだ」歌と言及されている。この言い回しを加えて考えてみても、この評は理解が難しい。この歌のどこが異様な感覚の鋭さにあたるのか。定型と技術と比喩のバランスとは、そのぎりぎりさとはどういうことか。緊迫感を感じさせるのはどこの部分か。言葉を尽くして歌を評しているような文章だが、実際には何も言っていないのではないかと私には思えた。

泥書房 2021.2.    1200円+税

『現代短歌』2021.7. (No.85)公開記事

この記事が参加している募集

読書感想文