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『私の短歌作法』(上)現代歌人協会短歌講座

「現代歌人協会短歌講座」で昭和62年(1987年)5月から11月まで毎月1回、3人の歌人が自分の作歌方法について語った鼎談が収録されている。上巻に登場する歌人は、第1回山本友一、馬場あき子、大島史洋。第2回森岡貞香、宮地伸一、小池光。第3回千代國一、来嶋靖生、阿木津英。司会は島田修二。印象に残った発言を引く。

山本友一 確かに説明を聴くとわかるんだが、その説明の方が面白くて、歌もそのように作ると説明しないでもわかるんじゃないかと思うんです(笑い)。僕は、歌には説明も何もいらないという説の方で(・・・)。

馬場あき子 「さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり」の歌をなぜ挙げたかと言いますと、私自身ちょっとわかりにくい歌で、非難されても仕方のない歌だろうとは思いますけれども、それは「水流の音ひびく」というのが上の句によく付いていないからだと思うんです。

小池光 短歌は感動したものを歌にするという発想が、ずうっとあったと思うんですが、感動したものということは特別なことなんです。その特別なことに日付をつけて歌にしても、これは面白くないんです。つまりなんの感動もないもの、まったくなんの変哲もないものが、ある日付のもとに差し出されたとき、なにかわれわれの心に止まっちゃうんじゃないか。

小池光 淡淡と見えるものは、淡淡と作られたんじゃなく「計算」と、「目的」と、「意識」があって、そういう作品ができるんです。

森岡貞香 事実と事実の取り合わせというのは、理屈を越えたところがありまして、なかなか頭の中で考え出せないものです。(・・・)事実のもっている強みと言いますか、不可思議さというのがあります。

森岡貞香 歌というのは形があってのことですから、その形を入れ物として使うわけで、入れ物を壊してはだめ。入れ物に飲まれてもだめなんです。

千代國一 短歌は対象の一部だけを表現して、外のすべては読者の想像力にゆだねる暗示芸術の一つと思っています。

 自分自身の作歌を考える上で参考になりそうな言葉を抜き書きした。

 小池の発言は日付のある歌の位置付けとして納得のできるものだ。森岡の事実の持つ強みもよく分かる。事実は事実で生かしつつ、若干加工するという考え方もあるだろう。

 馬場の発言については、今では押しも押されもせぬ名歌とされる歌について、昭和62年時点では馬場自身が厳しい自己評価をしていたことが印象的だったので挙げた。(この歌を含む歌集『桜花伝承』は昭和52年刊)

 各回の最後に近藤芳美あるいは加藤克己が挨拶。歌壇というものが権威として実在している時代だったという印象を受けた。

六法出版社 1988年12月 2000円

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