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穂村弘『水中翼船炎上中』

第4歌集328首 17年ぶりの新歌集。この間に多くの歌が発表されたが、歌集収録時に「時間」というテーマに沿って緻密に歌を選び、構成し直されている。作者は1962年生まれ。大体その辺りの生まれという設定で、作中主体の人生ヒストリーを、日本の戦後の生活史と重ね合わせるようにして描く体裁を取っている。たまたまだが筆者は作者穂村弘と同年の生まれ。シラケ世代と呼ばれる世代(小学校低学年頃まで高度経済成長期、就職した頃バブル景気)だ。時間を螺旋状に描いて、過去と現在が螺旋上の点と点として直通するように歌集は構成されているが、そこは敢えて置いて、描かれている事物をできるだけ現実に寄せながら、一首の歌として読んでいきたい。また、世代論は現在あまり有効とは思えないが、この歌集に描かれる時代の前半ぐらいまでは、世代分けがかなりはっきりしていたので、この文では世代についても読みの参考にする。

オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂

 地域に密着した小学校。そこに現れる転校生はどこか謎めいて、異界からの訪問者を思わせる。特に70年代初めは、転校生を扱ったテレビドラマが幾つも放映されていたから、何となくドラマの主人公扱いだ。すぐに慣れて打ち解けるのだが、最初は腫れ物に触るように、まず噂が先行する。その噂はオール5。しかも弁当がサンドイッチ。70年代はまだ明確に敗戦の意識を引き摺っており、アメリカ(を含む西欧)のものは何でも格好良く、日本のものは格好悪かった。特に伝統を引き摺っていたらダメ。サンドイッチは格好良く、おにぎりはダサかった。この歌でもオール5=サンドイッチと、サンドイッチ(西欧)が優れたものという当時の意識で、転校生が格付けされている。

ラジオ体操聞きながら味の素かきまわしてるお醤油皿に

 70年代前半、小学生は夏休みのラジオ体操に参加した。参加しないと寝坊でだらけた夏休みを送っているという烙印を押された。作中主体は近所の公園で行われているラジオ体操に参加していない。寝坊ではなく起きているのに。そこに「みんなでラジオ体操」という当時の風潮に乗れない主体の意識が浮き上がる。「体/操」というギクシャクした句跨りにその屈折が表されている。しかし主体は味の素は使っている。現在「味の素」というと会社名だが、当時は商品名。調味料の主役である醤油の、欠かせないパートナーとして、当時の味覚に大きな位置を占めていた。お醤油を入れたらそこには味の素。何でも味の素味で食べていた。その点では時代の流れに逆らわない主体。「味の素を食べると頭が良くなる」という都市伝説を親が信じていたのかも知れない。

おいしいわいいわかるいわすてきだわマーガリンを褒めるママたち

 当時、アメリカの家庭生活を描いたテレビドラマ「奥様は魔女」が人気だった。サマンサのような髪型と洋服に身を包んだママたちが、新しい食べ物であるマーガリンを絶賛している光景が頭に浮かんだ。バターは太るがマーガリンは太らない、バターはパンに塗りにくいがマーガリンは塗りやすい、そうなるとマーガリンの方が「おいしい」ような気さえしてしまう。食事に米を出してくる母ちゃんより、パンを出すママの方が格好良かった。さらにそのパンに塗ってあるのはバターよりマーガリンが優れていた…。時流に簡単に流されるママたちが、上句のひらがなの重複で、軽く揶揄されつつ、愛おしまれている。(このママたちを私は勝手に「少国民世代、ギブミ―・チョコレート世代」と呼んでいる。戦争末期から戦後すぐにかけて空腹に苦しんだ子供たちで、進駐軍のチョコやキャンディに飛びつき、アメリカに憧れた世代だ。)

レコードの針がとぶのが嬉しくていとこはとこといっしょに跳ねる

 戦前の蓄音機は戦後ステレオとなり各家庭に普及した。テレビもステレオも大きな家具で、家の一部を占めていた。もちろん誰の家にでもあったわけではない。ある程度収入のある家庭から普及が始まった。そのステレオのある家に、無い家からいとこはとこが遊びに来る。いとこもはとこも大勢いた時代だ。最初はレコードをかけて聞いていたが、針が飛んで音が飛ぶのが面白いことに気づき、段々わざと音が飛ぶように飛び跳ね出す。おそらく大人に怒られるまでやったのだろう。その後レコードはDVDになり、家具だったステレオはどんどん小型化していく。現在ではレコードも針も一部愛好家を除いてほとんど使われていない。そのため、この歌からはある時代の空気がはっきり立ち上がる。またいつの時代にも共通な「おバカな子供たち」像も巧みに描かれる。「は」の音が一首に開放的な響きを与える。

解けてゆく飛行機雲よ新しい学級名簿に散らばった(呼)

 今は学級名簿を配ったりしない。個人情報を守るためだ。しかし作中主体の子供時代には当たり前のように学級名簿が配られていた。名前、両親の名前(親がいなければ空欄)、住所、電話番号。一体それが無かったらどうやって連絡取るの?クラスの電話連絡網は必須でしょ?という時代だ。個人情報の保護ということは概念すら無かった。家に電話が無いと、大家さんなどの電話番号の前に(呼)の字がついていた。ああ、この家は電話が無いんだ、呼び出しだ、ということもまるわかりだ。新しい学級名簿が配られた途端、全員の家庭事情が一瞬で明らかになる。主体は名簿からの生徒同士の位置取りなどを考えながら、飛行機雲を見ている。すぐ出来てすぐ解ける飛行機雲。クラスの人間関係のように。

約束はしたけどたぶん守れない ジャングルジムに降るはるのゆき

 おそらく小学校最後の日々。ジャングルジムは小学校を、春の雪は三月頃という季節を表している。別々の中学に行くけどまた会おうな、などと約束してそれぞれの道に進んでいく。主体はぼんやりと、その約束は守れないなと思っている。小学生ながら先を読む能力を持っているのか、大人になった今詠んでいる歌だからそれを表せるのか、あるいは誰もが守れないことを薄々感じながら約束しているのか。春の雪のように溶けていく小学校時代の人間関係。一つ前に挙げた歌と共に、作者が人間関係を儚いものと捉えている視点が浮き上がる。

蜂鳥、求婚、戦争が止まってる 言葉を習う窓の向こうで

 中学生になると英語を習い始めるため、この歌の「言葉」は英語と思われる。英語の教科書や副教材に扱われる文章の内容や例文の内容は、それぞれ全く脈絡が無い。あるレッスンで蜂鳥の生態を習ったかと思うと、「誰々が誰々に求婚した」などという例文を習い、戦争の話を習う。それらが窓の外にある現実世界とシュールに混じり合う。蜂鳥が空中でホバリングするように、口に出して求めてしまった結婚や、始まってしまった戦争が、止まっている。極小の蜂鳥と巨大な戦争の間に、個人の恋愛が宙吊りだ。窓の中から傷つかない存在としてそれを見つめる主体。

おトイレのドアを叩いたことがないわたしは冷酷なひとりっこ

 1970年代当時の「標準世代」は夫婦と子供二人。政府がそう定めたからといって別に従わなくても良さそうなものだが、当時は圧倒的に子供二人の家庭が多かった。三人だと珍しいが特に何も言われない。が、一人っ子への風当たりは強かった。一人っ子だからわがままだ、他人を思いやれない、譲り合うことを知らない、等々。今では考えられないことだけれど。挙げた歌はそれを自嘲的に詠っている。ノックして誰かがいるかなど確認することなく、すぐトイレのドアを開ける。どうでもいいような小さなことだが、おそらく主体はそれで「冷酷な」とまで言われた経験があり、トラウマになっているのだろう。「おトイレ」という妙に上品ぶった言い方も、トラウマを与えた相手に何か関係があるのかも知れない。

髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌

 苦しみや生きることへの嫌悪感を表現すると、昔はあるいは他の国なら、もっと大変だ、その悩みは贅沢だわがままだなどと言われることがある。しかし、人は自分の生まれた時と場所でしか生きられない。それしか知らなければ贅沢もわがままも無い。作中主体は髪の毛が一本口に入っただけで、耐えられないという感情を抱く。髪の毛は意志を持った生き物のように主体の口にわざわざ飛び込んで来る。とんでもない厄災。「いっぽん」という目立つ表記。三句と四句の句跨りが、状況とその状況から喚起される感情を、少しの凸凹を伴いながら繋ぐ。「世界」の語の大げささこそが作中主体の生きる場を表している。

鮮やかなサンドイッチの断面に目を泳がせておにぎりを取る

 おそらくコンビニでの場面。この歌の中で主体はすでに大人になっている。おいしそうなサンドイッチの鮮やかな断面にも目が引きつけられるけど、腹持ちのいいおにぎりの方が実際的なのでおにぎりを取る。いや、本当はサンドイッチよりおにぎりが好きなのだ。その好みに正直に行動しただけだ。一首目に挙げた歌と遠く、かつ螺旋状に時間が繋がっている。もうアメリカが格好良くて日本がダサい時代は終わっている。日本という国ごと、アメリカに精神的に呑まれた時代は終わっているのだ。それは精神的な解放だろうか。なぜか世界からキラキラ感が消えたような感触が歌にある。この歌集の構造に沿って一首目と呼応させながら読むこともできるが、一首でも充分鑑賞することができる歌だ。

講談社 2018年5月 2300円(税別)

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