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〔十首評〕鈴木加成太『うすがみの銀河』(角川書店)

 不思議な静けさに満ちた歌集。美しい語彙、眼前に描き出される風景、まるで言葉で描いた絵のような、それらが綴じられた画集のような印象の歌集だ。それらの風景は、現実を描いたものであろうが、どこか現実と紙一枚隔てたような異世界を感じさせる。感情を抑えて、見ることに徹している作中主体。歌集半ばから、少しずつ現実との接点と、それに伴って感情が見える連作が表れる。「浜風とオカリナ」「ひぐらし水晶」、東日本大震災の被災地に取材した連作「石巻」、「高音域」などの連作に惹かれた。
 
蓋に森、胴にみずうみ 鏡なすグランドピアノは少女らのもの
 巨大なグランドピアノはその蓋に森を、胴体部分に湖を湛えている。そしてその鏡のような表面に少女らの姿を映している。何百年もの改良を経て、成熟してきた大きな楽器。まだ年若い少女ら。その少女らが弾く時、グランドピアノは彼女たちのものになる。陶酔を誘う音色を奏でる前の一瞬、少女らを映し出すグランドピアノ。

手花火の匂いをのこす水色のバケツに百合の花は浸りて
 昨夜皆で手花火を楽しんだ。花火の残骸もそれらを漬けていた水も捨てられ、水色のバケツには新たに水が汲まれ、百合が差し込まれている。花瓶に生ける前の仮置きと言ったところ。花火は捨てられているが、まだ火薬の匂いが仄かに残っている。そのバケツの中で、凛とした百合たちは、背筋を伸ばしたまま、思い思いの方向を向いている。時間と匂いを内包した、一枚の絵のような一首。

雪に音階あるものならばいま高いシのあたり 熱い紅茶を淹れる
 雪が降っている。雪は降る時に音を立てないが、もし音階があるならそれは高いシ(ピアノを弾く時に通常手を置く位置より1オクターブ高い位置と取った)の辺りの音だ、と主体は感じている。恐らく、主体の耳にはその音が届いているのだろう。そのキーンと張り詰めたような音を聴きながら、熱い紅茶を淹れる。紅茶で身体を内側から温めながら、冷え切った高音を聴くのだ。

エッシャーの鳥やさかなとすれ違う地下鉄(メトロ)がふいに外へ出るとき
 エッシャーの絵「空と水」では文様化された鳥と魚が白黒の画面の中で入れ替わる。水の中では魚が描かれているが、空中では、魚と魚の隙間だった部分が、鳥になって空へ飛んで行く。暗い地下を走っていた地下鉄が不意に地上に出た時、その光に曝された時、暗闇だった部分が鳥になって空へ一斉に羽ばたいていくような幻覚を得たのではないか。逆に明るかった車内は、外光を受けてふと暗くなる。まるでエッシャーの白と黒、光と闇が入れ替わるように。

街が海にうすくかたむく夜明けへと朝顔は千の巻き傘ひらく
 連作「浜風とオカリナ」は、海辺の避暑地を描いた映画の数カットを見ているような印象を与える。どれも絵画的、映像的であり、淡い色遣いで登場人物を描き出す。描かれているのは現代の日本だろうが、ヴィスコンティやヴィクトル・エリセの映像美に近いものを感じる。掲出歌は連作二首目で、場面設定と言える歌だ。夜明けに街が海へうすく傾くような時刻がある。その夜明けに、町中に植えられた朝顔が開いていく。それを巻き傘をひらくと捉えた。細い小さなパラソルが開かれるように朝顔が静かにその蕾を開く。この世に海と朝顔だけがあるような静けさだ。

オレンジの断面花火のごと展(ひら)きあなたは分けてくれた不幸も
 オレンジを薄切りにするとその断面は花火が開いたような形になる。それをあなたは分けてくれた。切ったオレンジを分けてくれただけではない。あなたはその持っている不幸も分けてくれたのだ。不幸のようなマイナスイメージのものを、分けて「くれる」とプラスイメージで言うのは、言葉の使い方としては破格かもしれないが、二人の逃れられない関係を示唆しているのだと取った。「浜風とオカリナ」最後の一首。

もう足のつかない深さまで夜は来ておりふうせんかずらの庭に
 足がつかない深さ、は海やプールでよく使われる。水の深さと同じように夜の闇の深さに浸っている。もう自分の全身を浸すほどの深さまで夜の闇が来ている。広がりのある空間にではなく、区切りのある広さの庭に来ている。その庭にはふうせんかずらが咲いている。夏の終りの風景が描かれる。この一連は祖父の思い出を描き出したものであり、現代の、また少し前の戦争の時代の日本に繋がる一連である。

出逢はない方がよかつた好きだつたひとが哀しい帆になつてゆく
 過去形の繰り返しが取り返しのつかなさを強調する。好きだったという気持ちを覆い尽くすほどに出逢いを悔いる気持ちがある。好きだった人と自分、そして周りの人との関係性を風と帆船に喩えている。哀しい帆の表す意味は多様だが、帆としての役割を果たせない、船が進むための力になることができない状態と取った。歌集前半は静かで、感情を表した歌が目立たない歌集だけに、こうした強い気持ちの出た歌には立ち止まった。

ナイフ布でつよく拭へりひとおとしむるとき舌は暗くかがよふ
 パンナイフだろうか。使った後、強く布巾で拭いた。他人を貶める時に人の舌は輝く。それも暗い輝きだ。食事をしている間、他人を貶めるおしゃべりをしている人がいたのだろうか。そんな舌を思いながらナイフを片付けている。あるいはそのナイフで何かの思いを切り落としたいのかも知れない。これも感情の見える歌。

異形は群るるほかなく候ひらひらと鉦叩きつつ夜風過ぎたり
 巻末に近い連作「お辰宗旦」より。この連作は近世文学を背景にしたものだ。どのような江戸期の文学(文学というカテゴリーでいいのかどうか分からないが)を下敷きにしているのかは調べられていないが、どの歌も軽妙洒脱、軽みと俳味に溢れている。それまでの静かで動きが少ない、またメランコリックな作風とは大きく違う。これも作者の一つの側面であることが思われる。
 この歌は、江戸時代の普通からこぼれ落ちてしまった異形のものらに焦点がある。異形は異形で群れる他なく、「群るる他なく候」と宣言しながら、鉦を叩きつつ夜風に乗って通り過ぎて行く。これも異世界、異界なのだろうが、異形の群れはどこか剽軽で軽快だ。「候」の畏まった言葉遣いが逆に軽快さを醸し出す。
 歌集のⅣ章以降、表記が新仮名から旧仮名に変わるが、旧仮名は普段使わないものだけに、異世界へ旅立ちやすいのだろう。こうした近世風の作品に、旧仮名は必須と感じられた。

角川書店 2022.11. 定価2200円(税別)


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