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小林幸子『日暈』(本阿弥書店)

 第九歌集。2018年秋から2023年春までの496首を収める。2020年からは新型コロナの感染流行が、2022年からはロシアによるウクライナ侵攻が始まり、穏やかなはずの70代の日々が心乱れるものとなった。人との繋がり、歌を大切にする日々を通して、揺れる世界を着実に読み留める。場所と固有名詞が楔となって歌を現実に繫ぎ止めている。

生きたしとはるか来たりて節死す 九大病院終末病棟に(P26)
 茨城県生まれの長塚節だが、喉頭結核の治療を求めて、東京や京都の病院に入院した。最終的には九州帝国大学付属病院の隔離病棟で亡くなるが、それが今の九大病院なのだ。九州帝国大学というのと九州大学というのでは随分印象が違う。また今と違って旅のインフラも整っていない状況で、病身の節が旅をするように九州へやって来たことは印象深い。それも全てこの歌でいうように「生きたし」という思いからであったのだ。

すずやかな眉目もちたまふルーペもてみる白鳳の胎内仏は(P55)
 奈良、般若寺の白鳳秘仏を見に行った一連。胎内仏は小さく、ルーペで見ないと細部が分からないのだろう。そのルーペを通してみた仏は「すずやかな眉目」を持っていた。胎内仏という、普段人目にさらされない仏像に、渾身の技術をもって取り組んだ古代の仏師の存在が間近に感じられる。祈りが何百年もの時を超えて伝わって来るのだ。

ヴェネツィアの旅人ひとりもゐなくなり運河の水の青き春なり(P65)
 新型コロナの流行により封鎖された観光都市ヴェネツィア。大勢の観光客でにぎわうはずの街が、誰もいなくなった。元々、住民の少ない、テーマパークのような街だ。観光客がいなくなれば、一気に人影が絶える。中世のペスト流行時を彷彿とさせる様相になってしまった。ただ、人がいなくなったことにより、オーバーツーリズムで汚染されていた運河の水が青く澄みわたった。澄んだ運河の映像が世界に拡散されたことを思い出した。短い言葉で当時の風景を正確に描いた一首だ。

ふかきふかき空の底には鳥がなきうはのそらとふ空のありにき(P76)
 空を飛んで、モンサンミッシェルにヴェネツィアに行きたいけれど、コロナ禍で飛行機が飛んでいない。どこにも行けない閉塞感。外国どころか住んでいる町にすら行きづらいし、人にも会い難い。そんな呆然とした日々、空の底に沈んで行くようだ。上の空という空があり、その空の底で鳥が鳴いている。何にも集中できない内に時間ばかりが経っていくのだ。

ゆるやかな円をなしたる歌会の頭上にもみぢの青葉揺れゐる(P84)
 コロナ禍によって、歌会をしようにも場所が確保できなくなってしまった。主体の属する歌会のメンバーは飛鳥山の山上の石に腰を下して、歌会を始めた。ゆるやかな円の形をして座る歌会の人々の頭上に青葉が揺れている。今考えるとそれはそれでどこか味わい深い。この連作で、この歌集のタイトルとなる「日暈」を主体は体験する。コロナ禍の日々は実は人間が自然に近づいた日々だったのではないか。

春ごとに野山の花をみにゆきし友とメールに交はす「ご無事で」(P99)
 観光のために外出することが出来なかった日々。まず何よりも感染しないこと、命を大切にすることが先決だったのだ。感染に怯えながら過ごす日々に、友人と遊山に出かけるなど考えられない。まずお互い無事に生きることを祈るのみ。「ご無事で」の文面に万感がこもる。

花咲きて花ちりまがふこの春のさくらにいのちせかるるごとく(P114)
 この「水分神社」の一連は読み切れていない。本当に行ったのか、夢だったのか分からないのだ。家に籠る人を誘い出すほどに美しい桜。その桜咲く神社に行こうとする主体。この一首は花の中にいると読める。「この春の」桜だけでなく、いつの年の桜も、咲いて散る姿を人に見せて、人の命を急かせるのだ。それでも桜を見ずにはいられない。花に憑かれるのが春という季節なのだ。

子の父と母であること永遠(とは)なるを水平線をしろき船ゆく(P121)
 十四歳で亡くなった子の墓参りに行った一連。主体と主体の夫は、永遠に子の父と母である。既に子は亡く、自分達の命も永遠に続く訳では無いことは分かっている。それでも父と母であることは永遠。下句は時間と空間の果てに行くような船が視界を過ぎていくさまを描いて象徴的だ。

十字架は数かぎりなく丘にたちいつぽんづつが向日葵となる (P163)
 ロシアのウクライナ侵攻の後、日本中のあちこちで映画「ひまわり」が上映された。主体もそれを見に行った一連だ。筆者は残念ながら未見なので、これが映画の映像なのか、主体の心象なのか分からない。どちらにしても美しく、動的な一首だ。丘にたつ十字架が一本ずつ向日葵へと変わっていく。読んだ者の脳内にその映像が再生される。

国境の橋潰えたり橋わたるとは大勢のひとが死ぬこと (P195)
 ニュースを見ての歌だろう。国境の橋を渡って多くの人が逃げていった。戦争の一つの典型的な図だ。その橋が破壊される。普段あまりにも普通に行われる「橋わたる」という行動。それが戦時には全く違った意味を持つ。下句の持つ予言めいた力に戦慄を感じる。

2023.10.  本阿弥書店 定価:2970円(本体2700円)


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