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小林幸子『六本辻』(ながらみ書房)

 第八歌集。2012年春から2017年夏までの534首を収める。震災後の日々。変わってしまった風景と変わらない風景がある、また親しい友人や弟の死が身近にあった。常に不変の目を世界に向ける作者は、身近な人々の命だけではなく、歴史上のあるいは遠く離れた場所での人々の命に思いを馳せる。とても射程距離の長い一冊である。

からまつの芽吹きの森に雪がふりあかるくて迷ふこともできない(P11)
 落葉松の森を散策する。冬の芽吹きの森に雪が降って来る。葉を落とした木々の中を、雪は静かに明るく降って来る。おそらく地に着くか着かない香のうちに消えてしまう雪だろう。その雪の降りゆく森は明るい光が射しており、迷うことすらできない。たとえ迷うことが人の救いになる時であっても。

冬ざれの雑木の山をわたりきてすり傷のある月があかるし(P23)
 何ということもない、雑木の繁る山。今は冬で、雑木林も葉を落として、末枯れた姿で立っている。その山を渡ってきた月が頭上に明るく照り渡っている。しかし月の表面には傷がある。それは作中主体の目にしか見えない傷、主体自身の心の傷なのかもしれない。

木仏の背の切岸に円空のいきほふ筆の跡のこりをり(P26)
 木を彫って作られた円空仏。イメージでは直接鑿を入れたように思っていたが、この歌を読むと、筆で下書きをしていたようだ。その筆の跡が仏の背に残っている。鑿が勢いよく、迷いなく打ち込まれるためには、同じく勢いのある筆の線が必要だったのだ。円空は何を思って仏を彫ったのか。仏を彫るとは一体どういう行為なのか。現代よりももっとずっと生き難かった時代に人々を救うために仏を彫った人を思う。

鯉のぼり四月の空にいきほひて国境(くなさか)桃のはなざかりなる(P35)
 端午の節句は五月だが、地域によっては早めに、四月から鯉のぼりを上げるところもあるだろう。この歌の一首前に「桃の花あかるき里にひるがへる幟旗には武田の標」とあり、これは甲斐の国の風景ではないかと思われる。確かに山梨では雪解けと共に、花が一斉に咲く。人々は実を食べるための桃ではなく、花を愛でるための桃を多く植えている。何県とのくにざかいか。桃の花と鯉のぼりが長い冬の終わりを告げて明るくはなやかだ。

椅子三つ寄せたる〈オレのひみつきち〉に三角座りで子は眠りをり(P65)
 誰も入って来るな、オレの秘密基地なんだから。宣言して基地を守っていた子がやがてうつらうつらと眠ってしまう。足を曲げて、顎を膝に乗せていたら眠くなってきたのだろうか。三つ、と三角座りが響き合う。幼い子にとっての長い午後の一コマ。子はおそらく主体にとっての孫だろう。子と言い切ってしまうのがいいと思った。

いちごはよく洗つて食べよとこどもらに言ひきかせたり所長の妻は(P78)
 ドキュメント「ヒットラー・チルドレン」を見ての一連。他の歌から、所長はルドルフ・ヘス、子らがいちごを摘んだのはビルケナウの森だと分かる。何千もの人の命を奪った男の妻は、自分の子供には土で汚れた苺を食べることすらさせたくなかった。他人の命と自分の親しい人の命が等価であることが実感できないのだ。しかし一連の後の方には「収容所に生き残りたるユダヤびとの末裔にしてパレスチナ人ころす(P79)」という一首があり、憎しみの連鎖が断たれないことへの痛みが詠われる。2023年12月の今、まさにガザで起こっていることは昨日今日に根があるわけではないのだ。

おとうとが世にあらぬことふしぎなり丹沢山塊雪かがやかす(P93)
 急逝した弟を詠んだ一連。弟がこの世にいないことがまだ信じられない主体。目に入ってくるのは丹沢山塊が雪に輝く、雄大で美しい風景だ。人が一人死んでも山の姿は変わることはない。それは当たり前の事ではあるが、衝撃である。後の歌で弟がその二人の娘と丹沢連山に登ったことが詠われる。今も弟はそこにいるのではないか、そんな思いが下句に込められているようだ。

わがはこぶちひさき水に集まるや ミヅ、ミヅ、ミヅといふこゑ(P137)
 広島を歌会で訪れた時の一連。少し前に「この真上六百メートル上空に炸裂 スカイツリーより低く(P136)」という歌があり、その生々しさに戦慄する。どこへ行くにもペットボトルのお茶や水を持ち歩く、ということは現代では全く普通の行動だが、その小さなペットボトルに、水を求めて苦しみ抜いて死んだ人たちの声が集って来ているのではないか、という幻想に囚われる。広島は、声が聞こえる人には声が届く街なのだ。

春の鳥啼きますやうに いまはもう祈るほかなきひとの窓辺に(P144)
 この一連は主体の早世した子を詠ったものだと分かる。この作者の歌には常に子への祈りが通奏低音のように流れている。この一首の下句の「ひと」は誰だろう。今祈るほかない、と思っているのはむしろ主体のように思える。春の鳥がやって来てその声を聞かせてくれるのを祈るように待っている。その声を早世したわが子へと重ねているのかもしれない。そう思うと、祈るほかなき人は主体そのものと考えられる。子の部屋の窓辺で子を思いながら祈っているのではないか。

デヴィッド・ボウイながく帰らず夢の沼あるいは沼の夢ひかるなり(P166)
 この歌集が出る二年ほど前にデヴィッド・ボウイは亡くなっている。ながく帰らないのではなく、もう帰らないのだが、このように詠われると帰ってくるような気持ちになる。この歌は特に下句が美しい。同じ言葉を入れ替えて繰り返しているのだが、もうこの世にいない人の姿が映し出される沼が夢の中で光り輝いているさまが浮かぶ。何人もの親しい人たち、歴史上の未知の死者たち、それらを悼む気持ちが、同時代ではあるが遠いロックスターへの挽歌に込められている。

2018.11. ながらみ書房 定価:本体2500円(税別)



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