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山下翔『温泉』

第一歌集 現代の地方都市の陰影を奥深く描く。家族の在り方、人間の描き方にも体温が感じられる。それは必ずしも肯定的な意味ばかりではなく、生臭く、傷つけ合う存在である関係をも含む。作者はそれを一歩引き、哀惜を込め、かすかな乾いたユーモアも加えて描き出す。母恋いの歌集でもある。同音の繰り返しでリズムを作っていくところも特徴だ。

はつなつのものみな影をおとしゐる真昼もつともわが影が濃し

 もちろん全ての影の色は同じ、濃さも同じだ。しかし作中主体には自分の影が最も濃いと思われるのだ。自意識の反映だろう。初夏の、次第に日射しが強くなる季節の真昼、影の短く濃くなる時間に俯いて自分の影を見つめる。そこに今までの自分の時間が凝縮されているのだ。

新盆の家を周(まは)ると細き路地に船押す人と曳く人とあり

 船は精霊船。盆に帰って来た先祖を乗せる船だ。新盆だから、初めて帰ってくる霊を乗せる。ここに描かれる船は、一首前の「広場まで出でてまはせば二連なる精霊船はをとこのちから」からかなり大掛かりで重い船だと分かる。盆の季節、海に近い集落の細い路地を人々が船を動かしている。暑い暑い午後の光景。昔々からこうして暮らしてきたのだという人々の体臭のようなものが感じられる。

煙草吸ふ母のライターで火をつけてあれが最後の花火だつたな

 煙草を吸う母はこの歌集で繰り返し詠われるテーマだ。おそらく主体は母が喫煙することにあまり賛成ではなかったのだろう。家族で囲む花火に母のライターで火をつけた。子供であった主体にとってそれが家族でした最後の花火だった。その時は最後だとは思わなかったけれど、その後、子供である主体を囲んで家族が何かで遊ぶことは無くなっていったのだ。

見下すことが追ひ詰めることになるまでの間(あはひ)にあはくひかる粉雪

 愛していた、でも裏切られ、あるいは取るに足らないもののように扱われ、傷ついた。次第に相手を見下すことによって自分の精神を保とうとするようになった。そうしたくは無かったのだけれど、苦しんでいるままではいられなかったのだ。しかし、自分が相手を見下すようになると、相手は自分によって追い詰められるようになった。そこまでの間の時間には淡く粉雪が降っていた。しんとした静かな時間。雪も溶けてしまった。もう戻ることはできない時間なのだ。 

うどんのつゆにくづれてしまふかき揚げのからつとかたしかつて家族は

 うどんのつゆに入れられたかき揚げ。からっと揚がって歯応えがいい。だが見る見るうちにつゆが浸みて、ぐだっとなってしまう。かつてはからっと堅く、具材同士を結び付けていた衣がどろどろになって、具材はつゆの海にそれぞれ放り出されてしまう。「か」き揚げの「か」らつと「か」たし「か」つて「か」ぞくは。この同音の繰り返し。上句は序詞とも言える。どちらも万葉集に通じる手法だ。

始まつたり終はつたりしない関係よとつとつとふたつしづかな鳩よ

 「きみ」との関係を静かに味わう歌。上句の「始まつたり終はったりしない」関係という把握に感銘を受けた。いつか始まっていつか終わる、そういう期限付きの関係ではないのだ。静かで永遠を感じさせる心の結びつき。二羽の鳩がその関係を具現化する。

昼は河、夜は港のかほをしてなつのはじめの涼し宍道湖

 宍道湖は汽水湖。川の淡水と海の海水が混じり合う。シジミ漁で有名だ。松江は穏やかで美しい地方都市。小泉八雲の愛した土地だ。宍道湖の風景を「昼は河、夜は港」と捉える。「かほをして」が一首の眼目だ。は「じ」めの『す』「ず」『しし』ん「じ」こ。S音とZ音の重なりに愛唱性がある。音感の良さはこの作者の特徴だ。「宍道湖涼し」ではなく「涼し宍道湖」としたことによって宍道湖に重みが置かれ、上句の描写と釣り合う。

ほむら立つ山に出湯のあることのあたりまへにはあらず家族は

 上句を序詞として取りたい。温泉のある地方の人には出湯は当たり前だ。しかし、一旦その場所を離れてみると、「ほむら立つ山」も「出湯」も全く当たり前ではなく、とても特殊な自然の恩恵なのだと気づく。家族も自分が産まれた時から当たり前にあったように思っていたが、それはお互いの愛情と努力によって保たれてきたものであったのだ。それが分かるのは大人になってから。家族が当たり前に存在しなければ、子供は術も無く、ひたすらに傷つく。「あ」ることの「あ」『た』りまへには「あ」『ら』ず『か」ぞく『は』。悲しみを秘めた内容を、明るいア音でリズミカルに詠う。

逃げることがほとんど生きることなりき落ちて形のきれいな椿

 逃げることが生きること。辛い自己把握だ。「ほとんど」に少し救われる。そこに冷静な自己観察眼があるからだ。今は本来の自分と違う形で逃げているけれど、落ちた椿がその花首をそのまま保つように、自分もきれいなままなのだ。選択できない生き方だが、そこには自分なりの美学もある。

ぢきに止むと思ひてゐしが本降りの気配さへしてわれら濡れをり

 雨の光景を描く。すぐ止む雨だろうと歩いていたが、だんだん本降りになってきて、自分も相手も濡れてしまった。実景を描いているようだが、どこか象徴的だ。ずぶ濡れになっても引き返せない二人の関係を描いているのかも知れない。

現代短歌社 2018年8月 2500円+税

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