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私はただぼんやりした子だった

私はぼんやりした子どもだった。

どれくらいぼんやりしていたかというと、1日何もしなくても過ごせるくらいに。

今話してもなかなか誰も信じてくれない。リアルでも、noteでも。
母すら「あんなにおとなしかったのにねえ・・・」と嘆息した程だから。

小学校に入る前は、世田谷の社宅にいた。今は高級住宅街となっているが、当時はのんびりとした牧歌的な地だった。
社宅は芝生の庭がある、平屋だった。

近所に私と同い年の子はいなかった。
姉と同い年の子はいて、姉はよく遊びに出ていた。世話好きではない姉は私がついてくることを嫌がり、そっと出ていくことが常だった。

私は泣いたりもしたんだろうが、あきらめて一人遊びをしていたようだ。

大した道具はなく、何枚かのお皿とビーズや小石を使って一人でブツブツ言いながらおままごとをしていた。
その記憶はおぼろにある。

一人目の子に張り切った若かった母は、姉にいくつか習い事をさせた。
お絵描きや、オルガン。
本人がやりたがったわけではなく、近所でやっている人がいたり、誘われたりして始めたようだ。

姉は「あんなもの、何の意味もなかった」と思春期になって吐き捨てるようにいっていた。
でも、二人目となって飽きたのか、何の習い事もさせずにおかれた私はうらやましかった。

なぜか私は習い事もさせられることなく、家にいた。
私には「私も習いたい」というほどの積極性はなかった。
今思うと姉は活発で主張が強かったので、母は外に出したかったのだろう。

私はぼんやりとおとなしかったので、家にいても邪魔にならなかったのだ。

母は22歳と若くして結婚し、まだまだ何か自分のことを何かしたいと思っていたようだ。

私はもちろんそんなことには気がつかず、母のエプロンのはしっこをいつもつかんでいるような子だったらしい。

一人遊びをしていたからと、こっそり近所に買い物に出て帰ってきたら私が泣き叫んでいたと、くすくす笑いながら思い出話をする。
幼稚園に入る前のことなので、急に一人でいることに気がついたら不安なのは当たり前だろう、と思うが。
そんな母だ。

そんなわけで母にも姉にもあまり相手にされなかった私は、ままごと以外では庭に出て、芝生に座っていた。

空を見上げて。

こう書くと詩的だが、今なら不安がられるのではないだろうか。
何もせず、うすぼんやりと空を見上げていた子。

私は平気だったけれど。

だから今の子が週に5つも6つも習い事をすると聞くと、驚いてしまう。
よくできるなと感心してしまう。

私のあのぼんやりした日々は何だったのだろうと。

何をしたかったという強い欲求も、寂しかった記憶もない。

記憶にあるのは広い、青い空と流れる雲。
膝を抱えて芝生に座り、見上げている私。

きっと、何も考えていなかった。

その時間を何をはぐくんだのかはわからない。

ただぼんやりする時間があってもいいのではないか。

私は梶井基次郎の『蒼穹』が好きで。
ストーリーはほぼないごく短い小説。青空文庫で読むことができる。

空を見ながら追憶を綴った作品だ。空を描写しながら風景を、心の動きを、虚無を描いている。

高校時代に,『檸檬』や『桜の樹の下には』にもひかれたけれど、妙にこの小説が心に残った。
気持ちが重なり、私は空に昇った。

今「ぼんやりした子」というと、心配されたり、ため息をつかれたりするかもしれない。
うちの息子もどちらかというと、きびきびではなくぼんやりタイプだ。

でもいいではないか。

それが何かを育んでいるかも、しれない。
育んでいなくても、静かな時間を過ごせている。

ぼうっとしている時間を、その子を受け入れてほしい。
心で包んでほしい。

あのぼんやりした時間は、今も私の中に残っている。


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