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私の目と私じゃない人の目で、絵を見てみたい

「ママ、だっこ」
と手を伸ばす息子。
2歳くらいのとき、ベビーカーに乗せて美術館へ行った。

はじめはもの珍しそうに見ていたが、2,3分後にあきて、抱っこをせがむ。
仕方ないよね、と思いながら抱っこする。

片手でベビーカーを押しながら、進む。

不自由だったけれど、そうしないとどこにも行けなかったから。
どこへでもベビーカーを押し、抱っこ紐を持ち、出かけた。

動物好きだったので、動物の絵を見せるようにした。
「馬さんだねえ」「にゃあにゃあだねえ」というと、しばし見つめるから。

あるとき気に入ったのは伊藤若冲の、虎。

伊藤若冲 虎図 https://paradjanov.biz/jakuchu/colored/226/より

「このトラさん、カッコイイ!」
「でも、ねこみたいだね」

感想が正直で、おもしろい。


美術館は一人で行くことがほとんど。

でも、家に子どもをおいていけないから連れて行った。
それが楽しいと気がついた。

今はまた、一人で行くけれど。
つきあってくれなくなったから。


ひとりだと、絵を見ているようで、通り過ぎているかもしれない。
そう感じることがある。

何となく見て、解説を読んで、うなづいて、過ぎていく。

もったいないのかも、しれない。

そう思ったのは、目の見えない人とアートを見に行く、ということを知ったから。

全盲の人とアートを見るって、どういうことなんだろう?

どんな絵か説明すること、ではない、ようだ。

目の見えない白鳥さんの前で「あーでもない」「こうでもない」といい合うのを、彼に「面白い」といわれる。
「わかること」ではなく「わからないこと」を楽しんでいる。

確かに、ここにバラの花があって、何色で、花瓶に生けられていて、花瓶は何色で、背景は・・・と説明しても、伝わらないだろう。
どんなに細かく説明しても、実物や写真と変わらない。

それよりも感じたこと、わからないこと、考えたこと、を語るほうが「伝わる」。

語る側は、語るために見ることで、絵をじっくり見る。

ある学芸員さんは説明したあとで「ありがとうございました」とお礼をいった。ここまでじっくり見る機会がなかったから、と。

ある美術展スタッフさんは説明しながら「ここに湖があって・・・あ、これは湖じゃなくて原っぱですね」と驚いた。湖だと思い込んでいた、と。

私も、絵を見ながら自分を見ているのかもしれない。
自分が見たいものを。ある思い込みで。


誰かと見ると、そのヴェールが開かれることがあるのかもしれない。
あるいは新しい目で見られるかもしれない。


見えるものは人によって違う。
そのことを少しでも分かち合えたら、伝わってくるものが変わってくる。

専門家が、一方的に説明してくれるのではなくて(それも好きだけど)。

感じながら、しゃべりながら、自分たちの輪をつくっていく。

絵を囲む、輪。

息子と見た時、それまでと違う目で絵を見ていた。
目線を低くしていたつもりだったけれど、まっすぐ素材に向きあっていた気がする。

ゆったりした気持ちで、見ていた。


自分の「見る」「知る」「体験する」を確かめたくなる。

そして、もう一度小さかった息子と「これ、なんだと思う?」と絵を見に行きたい。

白鳥健二さんは、大学時代に交際していた女性と美術館に行き、そのおもしろさにはまったそうです。
美術館に見学を頼み、何度も行くようになります。
現在51歳。「全盲の美術鑑賞者」で写真家。noteを書いてます。






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