見出し画像

8月31日の夜に夏休みの宿題に追われていたあの頃から、時代は大きく変わった

8月31日の夜と言えば、まっさきに思い浮かぶのが夏休みの宿題だ。

私が子どもだったころ、8月31日の夜はいつも夏休みの宿題の消化に追われていた。

noteのハッシュタグ「#8月31日の夜に」でそのことを思い出し、当時から約40年過ぎて感じる時代の大きな変化について書きたくなった。

つまらない思い出話も多いが、お暇な方はお付き合いいただければ幸いだ。

誰に言われようがどれほど自分で反省しようが、毎年8月31日の夜になると血相変えて夏休みの宿題をほぼ徹夜で仕上げていた。

それどころか、始業日に間に合わない宿題は、先生に拝み倒して提出期限を延長してもらった。それがだめなら、ところどころ白紙で宿題を出すこともあった。

しかし、決してその状態が平気だったわけではない。むしろ「なんで他の人が簡単にできることができないのか?」と自分を責め続け、かなり努力して前倒しで宿題をやろうと試みた。

それでも、夏休みの宿題を前に鉛筆が進まない。その結果ずるずると宿題の完成が先延ばしになり、8月31日の夜を迎えることを繰り返していた。

その理由が今ははっきりわかる。

差別する学校も、人と同じことができない自分も憎んでいたから宿題が進まなかったのだ。

何事も人の倍時間がかかる私は、時間や期限を守ることが極めて難しい性質を持っている整理整頓も非常に苦手で、自分の机周りはいつも乱雑。今でも、気が緩むと私のスペースはカオスな状態と化す。

つまり、人が容易にできる時間厳守や整理整頓が、壊滅的に苦手なのだ。

まだ病院で診断を受けたことはないが、多分私は「ADHD」かそのグレーゾーンにあると思う。子どものころから大人に至るまで、その特徴が私の普段の行動パターンとしてはっきり出ているからだ。

そのような子どもは「人と同じことができない子」と差別されがちだ。親や教師から疎まれ、子どもたちからはいじめのターゲットになりやすい。私もそれでだいぶ苦労したものだ。

大人になった今は努力でだいぶ改善されたが、相変わらず時間を守るのが難しく、整理整頓が超苦手な自分自身と常に戦い続けている。

私のように「人と同じことができない人間」は、集団生活になじむのが大変だ。

私が小学生のころは「人と同じことができない人間=集団の和を乱す人間」としかみなされなかった。そして、そういう人間は容赦なく差別され、公開処刑のごとく大衆の面前で人格否定された。

生徒が一同する中、教師は「集団の和を乱す人間」と認定した生徒をたたき、他の生徒がその生徒に罰を与えるように仕向けていく。それが原因で私はいじめや仲間外れに遭い、罪悪感から自己肯定感も大きく下がってしまった。

そんな小学生時代に戻るか死を選ぶかのどちらかを選ぶ必要があれば、私は迷わず死を選ぶ。それほど嫌な思い出しかない。

夏休みの最終日にやる宿題は、そんな地獄のような小学生生活に戻る片道切符みたいなものだった。そのような宿題を子どもがやりたいはずもない。それでもよく我慢して宿題をやったと、当時の自分をほめてやりたい。

それから約40年経った今もなお、私は時間を守るために大変な努力を要している。行動のスピードも相変わらず遅い。

しかし、今やっているライターの仕事で納期に遅れたことは一度もない。それどころか、前倒しで提出している。

ほかの人には当たり前かもしれないが、小学生時代毎年8月31日の夜に宿題をやっていた自分を考えると奇跡のような現象だ。

その背景には、「人と同じことができない」ことへの理解が進んできたことや、加齢により多少自信が戻ってきたことにあるだろう。

あれから長い年月が経ち、時代とともに人の考え方も大きく変わった。

まず、同じ生きづらさを抱える人が声を上げ始め、悩んでいるのが私だけではないことがわかった。

また、私のような人が生きづらさを減らすための情報が世の中にはあふれており、周囲の理解も進んできたことを実感している。

さらに言えば、私自身が年を重ね、「人と同じことができない」ことを悪とする年上の人と力関係が逆転したことも大きい。

おかげで、生きづらさを抱えていても以前のように人格否定されることが大きく減った。

そのせいだろうか。先述の通り、今はまがりなりにも時間を守れるようになった。

時間を守れない自分を必要以上に責める必要がなくなった結果、心に余裕が生まれ、どうすれば時間を守れるかを冷静に考えられるようになった。

人は、否定されればされるほどダメになる。自己肯定感が落ちるほど自分自身の存在を否定し、周囲の期待通りにダメな方向に落ちていくものだ。

小学生時代の私がまさにそのパターン。何をやっても否定されるのでは?と思うと委縮して頭と体が動けなくなり、自分の存在価値を自分で否定してしまうのだ。その結果宿題が進まなくなり、いつも始業式前日の夜に四苦八苦していたのだ。

しかし、時代が変わって人の意識が変わってきたため、自分を否定する必要性が薄れてきた。

次第に自己肯定感を取り戻し、だいぶ生きるのが楽になった。

その結果期限ギリギリになることが減り、人並みに時間を守れるようになったのだから不思議だ。

たぶん、横並び意識の強い日本人には、私と同じく自己肯定感が低い人がたくさんいるだろう。

しかし、「人と同じこと」ができなくても他の人にない優れた部分で勝負できるのが、価値観が多様化した今の世の中だ。少なくとも、ある一定の枠にはまる人間だけ優遇されてきた昔より、よほど生きやすくなっている。

そのわかりやすい例が、フリーランスの増加だ。もちろん安易にフリーランスになることはおすすめできない。それでも、横並びが苦手で会社勤めがどうしてもダメな人が、人並みに稼げる場が増えたのは非常に喜ばしいことだと思う。

今の時代は「個」で勝負できない人には厳しくなる。それを乗り越えなければ未来はない。

しかし、「人と同じことができない人間」にとっては、その方が楽ではないだろうか?少なくとも私は非常に楽だ。

そう考えると、厳しいながらいい時代になったとは思う。人生の後半になりようやく小学生時代の悪夢から解放されたような気がする。

そんなことをふと考えた、8月後半の雨の夕方。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?