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私の思い出に残る「田舎」の風景

先日の日曜日、主人の田舎で法事がありました。

そこは和歌山の「御坊」で、二級河川として日本一長い「日高川」が流れる地域にあります。

いつも車でサッと通りすぎてしまうので、川を写真に収めたことはないのですが、堂々たる川幅です。


河川の水系

私は長い間、この川は一級河川だと思い込んでいたのですが、二級河川だと知った時は、少々驚きました、

1965年に施行された河川法によって、国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定されたものを「一級水系」と呼んでいます。

国土交通省

上流から小さな川が合流して徐々に大きくなりながら海へと流れる一連の河川の単位を水系といいます。

そのうち、一級と二級の違いを一言でいうと、こういう事でしょうか?
・一級河川ー国土交通大臣が指定
・二級河川ー都道府県知事が指定

どちらも公共の利害に関係するため、河川法に従って管理されています。

ですから単に川の幅や長さだけではないのですね。

確かに人類の歴史は、ずっと自然災害との戦いで、特に日本は細長い国土の上、山がちな土地であるため、川の氾濫による被害は甚大で、いかに災害を回避するかが最大の課題でした。

この地に住む人たちも、何度も土木工事を繰り返しながら大自然と共存してきたのでしょう。



幼い頃の「田舎」

思い起こせば、私には「田舎」と呼べるものが無かったので、小学生の頃、同級生たちの「田舎」へ帰るという事がとても羨やましく思っていました。

「田舎」って何?
私も行ってみたいなぁ。
と、いつも思っていました。


母方は大阪市内

私の実家は、父は京都の山科、母は大阪市東成区ですが、今はすでに住む人もなく家は残っていません。

母方は大阪市内なので、自然風景は見られませんでしたが、私は頻繁に泊りがけで遊びに行ったので、幼馴染も多く、思い出の多いところです。

近くには親戚も多かったのですが、身内であろうが他人であろうが、町内で親密な関係が根付いていて、季節の行事にも一緒に取り組んでいました。

大阪の良き庶民の協力生活がそこにはありました。

初孫である私は、母方祖母にとても可愛がられて育ち、もしかしたら親よりも大好きなぐらいでした。

6年前に96歳で大往生した時は、思い出が多すぎて随分とダメージを受け、何の恩返しもできなかったことを後悔して落ち込んだものです。


かすかな記憶の京都・山科

一方、父の実家の京都・山科は幼い頃に一度だけ訪れたのをうっすらと憶えています。

家の裏に川や山があり、とても豊かな自然風景があったのです。
父の弟である叔父は、川で鮎を獲ることが子供の頃の遊びであったと懐かしんで話していました。

その川は宇治川の支流である「山科川」だったのでしょうか?
次回、話すことがあれば確認します。

父方の祖母とは、その一度きりしか会ったことはなく、顔も声も忘れ、今となってはぼんやりとしたシルエットしか浮かびません。

その祖母は、祖父と離婚後に再婚していたので、疎遠になっていたと、随分後になってから知りました。

ではあの時、父は3歳の長女の私を連れて、なぜ突然の訪問をしたのか、いまだにわかりませんが、私にとって忘れられない唯一の父方祖母の思い出となりました。


「河原乞食」の思い出

私の記憶は、おそらく幼稚園に上がる前の3歳頃からのようです。

その頃から、近所の人や両親たちの兄弟などと、毎年のように桂川や吉野川の上流の河原でキャンプをしたものです。

早朝、暗いうちに出発するので、私はこれから何が始まるのか毎回ワクワクしていた感覚は忘れられません。

母は後年になっても「河原キャンプ」とは言わず「河原乞食」と呼んでいた行事でした。

と言うのも、今のLOGOSなどに見られる、高性能のテントではなく、丈夫な「帆布はんぷ」のような布を、何本かの木を柱にして張っただけの自前のテントで、ひとたび強風に煽られると、たちまち倒壊するような粗末なものでした。

おおらかな時代だったので、危険地域であろうがお構いなしにどこでも好きなところで自由に陣取ることもできていました。

今から思えば、中洲みたいなところでもテントを張っていたので、万が一天候が急変したら大惨事なっていた可能性もあったと思うと冷や汗ものです。

父や叔父が獲った鮎や持参したお肉などの食材をその場で焼いて食べたりしました。

もちろんバーベキューセットという洒落たものはなく、大きな網を一枚用意して、石を四隅に並べた中央に炭火を起こし、その上に網をかけた原始的なものです。

まさしくそれは、集団乞食のような風景で、母の「河原乞食」はピッタリと当てはまるものでした。


結婚してできた「田舎」

当然のことながら、私たちも成長し、父も母も叔父もみんな年老いて、家族の恒例行事だった「河原乞食」も、もはや遠い思い出となっています。

しかし、自分も結婚して子供を持つと、そのアウトドア生活は復活しました。

上記のように和歌山に田舎に持つ主人のおかげで、和歌山の自然は私たち家族にとって、格好のアウトドア体験地となったのです。


命日月の5月に里帰り

いわゆる我が家の「田舎」と呼べるこの地は、45年以上も前に没した主人の父の実家です。

私から見たら舅の田舎ではあるのですが、その舅と当家の一代前の故人である当主が兄弟という関係なので直系ではないものの、同じ姓を名乗る一族なのです。

今のこの本家を継ぐ人と主人は「はとこ」どうしの六親等の間柄なのですが、お付き合いはずっと続いているのです。

舅の遺骨は、大阪の「一心寺」とこの地の一族の菩提寺とに分骨しているため、毎年、命日月の5月にはここを訪れて、お墓参りをするのが定例です。

それも例の感染症の影響で3年間中止していたため、今回の法事での訪問は久しぶりだったのです。


我が家の家族行事

息子ができると、ここを訪れた後、必ず近くの海へ寄って遊ぶようになり、和歌山の海を満喫してきました。

由良町や広川町、そして白浜や天神崎などを訪れ、息子たちが小学生の頃には三重県の「鬼が城」からスタートして、海岸沿いに紀伊半島を周遊旅行したこともありました。

画像クリックでGooglemapが立ちあがります。

和歌山の海岸は「串本」の「橋杭岩はしくいいわ」をはじめとする奇岩の名所が多く見られ、珍しい光景を堪能できます。

photoAC

全てはこの主人の「田舎」を拠点に始まったのです。

それはいつしか私たち家族の恒例となり、思い出は蓄積され、2人の息子たちの胸にも深く刻まれていると思います。




時の流れを痛感

さて、3年ぶりの訪問は、本家の人たちがちょっぴり年を取り、その子供たちも驚くほどに成長し、時の流れを感じずにはいられませんでした。

果たして、親戚としてのお付き合いは、いつまで続くのでしょう?

私たちの代は大丈夫ですが、息子たちの代になると続くとは思えません。

子供の頃こそ年1回は会っていましたが、高校生以上になると、親に付いてくることも無くなり、数年に一度会うか会わないかになっているのです。

和歌山の本家も、今の代までは大丈夫でも、跡継ぎがいませんので、このまま廃れる可能性もあります。

この先を思うと、このまま疎遠になり、一族の痕跡すら消滅するかもしれません。

そう思うと、少し寂しさを感じた今回の法事でした。

お料理は食べ尽くせないほどの会席で、その上たくさんの手土産を持たされるのが常で、田舎の法事は本当に派手です。

おまけに畑で獲れたというエンドウ豆や絹さや、玉ねぎなども持たされて、まるで実家に帰ったような感覚になります。

いつも「田舎」に来るときは晴れるのに、珍しく当日は一日中雨でした。

気分は滅入りましたが、休憩に立ち寄った「紀の川SA」で燕の巣を発見して少しテンションが上がりました。

母鳥でしょうか?巣の前で辺りを見張っているのが印象的でした。



【参考文献】
国土交通省


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