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茶々と寧々 女の戦い

先日、北条政子が日本史三大悪女の一人であると書かせていただきました。

今回はその悪女の一人と言われている茶々(淀君)について書かせていただきます。
彼女を語る時、どうしても比較対象されるのが秀吉の正室・寧々(高台院)です。

秀吉没後、関ケ原の戦い~大坂の陣においての裏の戦いとして茶々VS寧々の戦いであったという見方もされ、二人の立場は二極に分かれて犬猿の仲だったと思われていますが、実際はどうだったのでしょうか?

時代の変革期に翻弄された女性として、寧々と茶々の関係性に迫りたいと思います。


本妻である寧々

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夫の秀吉や上司の信長と同じ尾張国(愛知県)出身で、父は杉原定利というれっきとした武家の家に生まれ、農民だった秀吉とは家格が釣り合わず、結婚には身内から猛反対を受けながらも、当時としては大変珍しい恋愛結婚でした。

内助の功を発揮

秀吉は結婚当初から女癖が悪く、多くの女性と関係を持ち、結果的に多くの側室を抱えています。
当初は寧々も夫の浮気癖に大変悩まされ、上司である織田信長に手紙で告げ口までしています。

なんと、それに対して信長は丁寧に返事までしているのです。

秀吉という奴ははげねずみの分際で、あなたのような良く出来た美人の奥さんは不釣り合いだという自覚がないおバカなのです。
あなたは十分素晴らしいので、つまらない浮気相手にやきもちをやいて自分の格を下げることのないようにして下さい。

信長から寧々への手紙(要約)

現代でも、夫の浮気を上司に相談するなど考えられない事ですが、それをあっけらかんと相談する寧々もすごいですが、それに真面目に答えている戦国の魔王・信長もスゴイ!

このやり取りを見ただけで、寧々の素直な開けっ広げの性格と、信長の紳士的な一面を垣間見ることができます。

それだけ日頃の寧々の妻としての貢献が、回りの人達の目にも明らかだったようです。



天下人の妻として

残念なことに子供には恵まれませんでしたが、親戚筋の福島正則や加藤清正、秀吉の軍師・黒田官兵衛の長男、黒田長政などを自宅で預かり、実の母のように世話をします。

世話をした子供たちはやがて武将となり、秀吉の家来となるのですが、実際には、寧々への恩義は忘れなかったという方が本当のところでしょう。

家内を切り盛りするだけではなく、やがて秀吉が関白に任ぜられると、北政所きたのまんどころの称号を許され、朝廷との交渉役もこなしていきます。

文字通り豊臣家の「政所」として政治の中枢を担うようになります。



母親である茶々

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父は北近江(滋賀県)を治める浅井長政、母は織田信長の実妹・お市の方との間の3姉妹のうちの長女として生まれました。
実はもう一人万福丸という男子も存在していたのですが、母が側室だった可能性が高いため本稿では除外します。

浅井3姉妹のザックリとした関係図です


過去に2度の落城を経験

父の浅井長政が織田信長に攻められ、落城とともに自刃します。
その時の侍大将は秀吉でした。

母のお市の方と共に3姉妹は織田家へ戻りますが、「本能寺の変」で信長が横死すると、その重臣・柴田勝家へとお市の方は再嫁し、共に柴田家へ入ります。

やがて「賤ケ岳の戦い」が起こり、柴田勝家は秀吉に滅ぼされ、二度目の落城を経験し、今度は母のお市の方も失います。

ここまでだけでも十分に激動の人生なのですが、秀吉の側室として嫁す事で、彼女の人生はさらに激しい時代の波に飲み込まれてゆくのです。

貧しい身分出身の秀吉としては、織田・浅井という血筋がどうしても欲しかったと思われます。


秀頼を出産

散々多くの女生と関係を持った秀吉ですが、子宝には恵まれず、過去に長浜時代に男子が生まれて夭折ようせつした事があるので、まったく子種がないわけではなかったようです。

しかしそれ以後は誰一人懐妊する事はなかったのに、茶々が懐妊したのです。
一人目の鶴松は残念にも3歳で夭折しますが、2回目の懐妊で生まれた男子は立派に成長し、後の秀頼となります。

過去に一人も実子がなかったため、当時から、これらの子たちは秀吉の子ではないと中傷され、父親は石田三成か?大野治長か?と未だに憶測が絶えない議論がなされていますが、私は茶々の不義密通などなかったと思います。

それは拙書「其の二 大阪編」でも熱弁してしまいましたが、誇り高い彼女は父母の名に懸けて不義など絶対に考えられないと思っています。

第一子を失くしている彼女は、秀頼に愛情のすべてを注ぎ込み、秀吉の死後も大切に慈しみ育てあげます。


肉親への情の深さ

茶々の末妹であるの娘、完子さだこ千姫も大切に育て上げます。

・豊臣完子さだこ
江は人生で3度嫁いでいますが、2番目の夫は秀吉の姉の子・秀勝でした。
残念ながら完子さだこをもうけた後「朝鮮出兵」時に病死してしまい、徳川家へ再嫁する際、豊臣に残った完子さだこを大事に育て上げました。

自分が苦しんだ経緯から武家には嫁がせず、公家の九条幸家へ嫁がせています。その時の嫁入り支度は、目も眩むような豪華なもので、完子さだこへの十二分な配慮が感じられるものでした。

・千姫
息子、秀頼の正室として迎え入れたのが、千姫7歳の時でした。
7歳の女の子ですから、茶々が慈しみ教育して育て上げて成人させたのは明白です。

嫁とはいえ、他人ではなく可愛い末妹の娘ですから、愛情も深かったようなのです。

この辺りも、茶々はかなり意地悪で性悪な対応をしたと思われがちですが、大阪城落城の際に、千姫が茶々の命乞いを祖父の家康にしている文書もあることから、千姫が茶々を慕っていた事が容易に想像できます。


協力関係にあった二人

ところで上記のような二人は、豊臣家ではどのような関係だったのでしょうか?

寧々は、信長からの手紙が功を奏したかどうかはわかりませんが、夫がどんどん出世して、側室たちにやきもとなど焼いている場合ではありませんでした。

内心は誰でもいいから豊臣の子を産んで欲しいと願っていたようです。

茶々が懐妊した時も、安産祈願したという事も記されており、彼女自身も後継者問題は深刻だったようです。

回りに目が行き届き、懐の深い寧々と、
純粋に我が子がかわいい茶々と、

実際には、寧々は豊臣の政治面を支え、茶々は豊臣の後継者を養育するという大きな役目を分担して、お互いに尊重し合う協力関係にあったと思われます。



二人の明暗を分けたもの

茶々を悪女として捉える理由の一つに、彼女の家康に対しての頑なな態度が原因となっています。

徳川家康は征夷大将軍となり徳川幕府を開くと、秀頼に臣下の礼をとるように求めるのですが、これを茶々が、親子ともども切腹するという手紙まで送って断固拒否しています。

これが豊臣を滅ぼした大きな原因と捉えられ、悪女と言われた一因にもなりました。


対して寧々は、早々と家康に歩み寄り、たとえ徳川の臣下に下っても豊臣家が生き残れる道を模索し続けました。

同時に寧々が幼少時から面倒を見て育て上げた武将たちも、一斉に徳川方につき、そのせいで豊臣方は寄せ集めの軍勢になってしまったのは仕方のない事でした。

また、家康もそれを見越して、寧々を大事に取り扱ったのは、隙がなく上手い策略でした。
寧々の方も立ち回りの良さを見せた外交手腕は、大したものだと舌を巻きます。


二人の明暗を分けたのは、
政治的側面から時勢を俯瞰する事ができた寧々と、
あくまでも我が子を天下人にとこだわった茶々と、
二人の目に映るものはあまりにも違い過ぎました。

茶々はとりわけ情が深く、我が子可愛さのあまりに、どうしてもプライドを捨てる事が出来なかっただけで、彼女を愚かな悪女と言うにはあまりにも可哀そうであると思うのです。


二人の認識の違いは、妻として生きたか、母として生きたかで大きく左右され、もし、茶々が安寧な世に生きていたなら、良家のお嬢様として育ち、母となっても愛情豊かで幸せな人生を送れたはずなのです。





【参考文献】
歴人マガジン
歴史人
奥の枝道 其の二 大阪編
「乱紋」永井路子





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