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私の大阪代表への思い

今年も大阪代表は「大阪桐蔭」に決まった。

大会中7試合で合計54得点、たったの1失点というずば抜けた強さを示し、2012年、2018年に続き3度目の甲子園春夏連覇の可能性も出てきた。

甲子園春夏連覇は他に6校が達成しているが、複数回の達成は大阪桐蔭だけで、しかも今年は3回目を狙う神がかり的な記録も達成できる切符を手にしたわけだ。

1991年夏の夏初制覇を経て、2008年夏の2度目Vから驚異的な結果を残している大阪桐蔭が甲子園の歴史を大きく塗り替えようとしている。

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今週6日(土)にスタートする「全国高校野球選手権大会」。
そんな中でちょっとローカルで、世代的にもピンポイントな話になるが、大阪代表について思い出した事を書いていきたい。



プロ野球は「阪神タイガース」

物心ついたころから、我が家の夏のテレビ視聴は連日「阪神タイガース」のプロ野球ナイター中継だった。

アニメの時間帯だけは、父がチャンネル権を子供たちに譲ってくれたが、それ以外はずっとナイター中継だった。

あまりにも毎日なので、たまに父が出張や接待などで不在の時は、喜んで子供たちでチャンネルを独占したものだ。

でも習慣とは恐ろしいもので、プロ野球チームといえば「阪神」しかないというぐらい、幼い脳内に刻み込まれ、おぼろげながら田淵がホームランを打ち、江夏が投げ、外人助っ人はブリーデンやラインバックだったのを憶えている。

やがて私も成長するにつけ、ちゃんと意識してプロ野球観戦に没頭する時期が来たときは、ちょうど掛布や岡田、真弓などが活躍し、ピッチャーでは江本や小林、そして外人選手はバースとなっていた。

この時代には友人と甲子園へナイター観戦もするようになり、間近にみるサポーターたちの応援合戦に笑い転げていたものだ。



高校野球はいつも崖っぷち

高校野球にハマったのは、定かではないが中学に入った頃だったと思う。

とにかくトーナメント制なので、負けた時点で彼らの甲子園大会は終わり、一瞬にして思い出と化してしまう。
それだけに一挙手一投足に並々ならぬ真剣さが伺える緊張感がたまらなかった。

たとえ大事なシーンでヒットが打てずゴロに終わっても、打者は「もしかしたら」に備えて、全力疾風し、頭から滑り込み1塁ベースを抱き抱え、審判のアウトの宣告に、甲子園の土を受けて真っ黒になりながらこうべを垂れる。

ごく些細なシーンにもいつもー崖っぷち感ーを感じられ、見てる私も選手たちといっしょにドキドキしたものだった。
高校球児たちのー明日はないーという真剣さに胸を打たれ、すっかり魅了されてしまったのだ。

それはプロ野球では見られないシーンだった。



今でも思い出すと胸が躍るシーン

まだ大阪桐蔭など存在すらしていない頃、大阪代表といえば「PL学園」「近大付属」「大鉄」「浪商」「北陽」あたりが交代に勝ち上がっていたと記憶している。

PLの清原・桑田、浪商の香川・牛島など、有名選手は大勢いたが、私には忘れられない選手がいる。


それは現在「阪南大学高校」と名を変えた、当時の「大鉄高校」の川端 正選手だ。

忘れもしないあれは、1977年の第59回大会3回戦の大分県・津久見高校との試合だった。
私は高校1年生の16歳で、その日も高校野球ファンの妹と真剣にテレビ観戦していた。

6-6の同点のまま迎えた延長11回ウラ、満塁の状態で川端くんがバッターボックスに入った。

その日の川端くんの成績はすでに4安打だったので、そうそう安打はつづくものではないと思い、この日はもう打てないだろうと、半分以上は諦めていた。

くっそ~。1点でええねんけど、もう打たんやろ。
またこりゃ延長やな。
しゃーけど打ったらすごいな…

ストライク、ボール、ボールと続き、次がファウルでカウント2-2での5投目、信じられない事が起きた。

カーン!と快音を聞いたとたん、寝転んでいた私たちは速攻で起き上がり、打球の行方を固唾を飲んで見守った。
なんと、打球は右翼スタンドへと吸い込まれたではないか!

もう私たちは立ち上がって抱き合って喜んでしまい、その時になって初めて「キャ~」と声が出た。

逆転満塁ホームラン!!!

この劇的な結末に、すっかり興奮はマックス状態となり、今でも思い出すと胸が熱くなる忘れられない試合となった。



強いけど粗削りだった大阪代表

昔から激戦地なだけあって、大阪代表は強いチームが多い。
しかし、それでも高校生である事には違いなく、メンタルはまだ未熟で、何かのキッカケひとつで脆くなり、試合の流れが一変したりしたものだ。

しかし、1983年開校の大阪桐蔭高校は、わずか8年後の1991年春には甲子園に初登場し、それ以後の出場は途切れたものの、出るたびに実力をつけてきた。

今ではどこをどう切り取っても安定した強さを誇っている。
逆に言えば高校生らしい粗削りさがなくなり、不安定さもなくなったのだ。

私は大阪人なので本来なら応援すべきなのだが、心のどこかでは相手チームを応援してしまうのを認めざるを得ない。

そして内心では、
1982年に大阪代表となった、公立の「春日丘高校」のように、
無名の高校が自力で激戦を這い上がり、大阪代表としてのし上がってくるチームを切望する自分がいるのだ。



今では孫となった高校球児たち

甲子園に登場する高校球児たちを見る私の目線はどんどん移り変わる。

中学生当初は、カッコイイ先輩たちで、
高校生になると、頼もしい同級生と変わった。

やがて弟のような感覚になり、次には息子を見るような目となり、
今となっては、もう孫を見るジジババ目線となってきた。

自分の年と共に移り変わる彼らを見る目線は、どんどん角度を変えて感じ方もにも変化を感じるようになった。

年齢を重ねるごとに、以前ほど力が入る事はなくなったが、それでもいつも崖っぷちだという緊迫感は感じられ、毎回の必死のプレーには感動する。

涙腺も緩んだのか、ただ単に勝った方を讃えることより、負けた方の健闘ぶりに涙してしまう。

そしていつも思うのは
ー勝たしてやりたかったー
という事。

どうしても敗者の方に、心を揺さぶるような試合をしてくれた感謝の気持ちでいっぱいになる。


◇◇◇


私には2人の息子がいるが、どちらも野球はしなかった。
残念と言えばそうなのだが、長男はバスケットボール、次男はサッカーを選び、私が知る世界を広げてくれた上、それなりの感動を与えてくれた。

やはりスポーツはいい。
特にチームスポーツには格別の素晴らしさを感じてしまう。
1人だけが頑張っても勝てないし、チーム一丸となって協力しないと勝つ事は難しいが、そこにこそ大きなやりがいがある。

どんなスポーツであれ、勝ち負けにこだわって一生懸命に取り組む姿は、限りなく美しいものだと実感している。

この記事を書いていて、そんな息子たちのスポーツ談をまた後日にまとめみたいと思ってしまった。




【参考文献】
Yahooニュース
高校野球大阪大会歴代優勝校
日刊スポーツ





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