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信長の城から見えるもの

毎週録画している番組の一つにNHKの「歴史探偵」があります。

歴史の謎を最新鋭の技術と、現地でのレポートにより深く掘り下げ、真実に迫る内容に身を乗り出して観るほど感心させられます。

今週は信長の最後の城となった「安土城」をVR再現したものでした。

当時、この城は初めて尽くしの城だったので、人々はさぞかし驚愕したことでしょう。

私たちが一般的に「城」と認識しているは「天守閣」だと思いますが、それを初めて立てたのがこの信長の「安土城」です。

しかもその名も「天守」ではなく「天主」と信長自ら命名しています。

それまでの城には天主はなく、元々は敷地内にあった監視用の「物見櫓」を実用性だけでなく、見せるための豪華絢爛な仕様にしたものなのです。

これだけでも当時の常識を覆すもので、だれも思いつかなかったことでした。

その他、
・5階部分が八角形
・屋根にしゃちほこ
・入場料を徴収して解放した
・大手門から180mもある直線道
・城のライトアップ
などなど、城が前代未聞なら、信長のプロヂュースも広報力も当時は前代未聞でした。


掘削して平地を作る

番組では赤色立体地図を使って、今に残る
地形の様子から、わざわざ山の斜面を人の手で掘削して平地をいくつも作っていることにも触れていました。

出典:国土地理院
白い部分が平地

当たり前ですが、現在のような重機もない時代に人力だけでよくもここまでの土木工事ができたものだと、今さらながら驚きます。

安土山中央に上に向かってほぼ真っすぐに伸びる階段沿いの両サイドに、家臣たちの館を備え、下から眺めると、はるか天近くににそびえる「天主」は、まるで人智を超えた神の要塞に見えたに違いありません。


焼失した理由は?

これほど豪奢で見ごたえのある城が、火災により完全に跡形もなく無くなっているのが、残念で仕方がありません。

しかも1576年に築城開始し、5年後の1581年にやっと全体城郭が完成し、たったの9か月で焼失してしまったのです。

どういう経緯で「安土城」は焼失したのか、確定できる史料はないので憶測するしかなく、様々な説が浮上しています。

1、明智軍が敗走の際に放火
2、次男・織田信勝による放火
3、安土城の守備にあたっていた蒲生父子による放火
4、略奪目的の野盗や土民による放火
5、落雷による焼失

Wikipediaより要約

真相は闇の中なので、もしかしたらこれら以外のとんでもない事かもしれないと思うと、妄想の膨らむところです。

10年ほど前にドラマから映画化された
タイムスクープハンター-安土城 最後の1日-」を
レキジョークルメンバーのチコさんと観ました。

「時空ジャーナリスト」なる者がタイムスリップして安土城焼失の謎に迫るというもので、現代人が当時の人々に直接インタビューしながら取材して真実を探るものです。

全体的にはもちろんマンガなのですが、これもまた可能性はゼロではない設定でした。

今から思えば、今は亡き上島竜兵さんの演技が光っていました。




歴代の築城

織田信長は他の武将とは異なり、自分の領地に留まるのではなくその時の立場や状況で転々と居住地を変え、自ら城替えしています。

当時は領地を広げても同じ地に定住するのが常識でした。

これは父の信秀も同じで、織田家特有の基本的な考え方があったのかもしれません。

なんと面倒なことを繰り返すのかと家臣たちの胸の内は辟易していたのではないでしょうか。

しかし、その面倒なことを繰り返すことで、「築城技術」「町割り」「経済発展の政策」などをどんどん学び吸収したことが、天下統一への先駆けとなり得たのです。

・「清州城」1555年

尾張の中心地にあった城で、織田一族を鎮めてまとめ、尾張統一を果たした。

・「小牧山城」1563年

1560年「桶狭間の戦い」で今川氏を下し、天下に鮮烈なデビューを果たす。
次の美濃攻めのため、そこに近いところに拠点を移す。
以後の信長流築城の原点の城。

・「岐阜城」1567年

美濃を制し、その中心地・稲葉山城を大改修したもの。
地名を「岐阜」へ変更と同時に「岐阜城」と変えた。

・「 安土城」1576年

東海・北陸を結ぶ交通の要衝であり、都にも近く、琵琶湖の水運も最大限に利用。


・💮大予想≫ 次は「大阪城」?

ここでもし「本能寺の変」がなかったら、次は間違いなく「大阪城」だったはずです。

このように信長の拠点の移動歴を俯瞰してみると、その状況による一歩一歩着実な行動が垣間見えます。

初めて自ら築城した「小牧山城」から始まり、それこそ最初のうちは狭い範囲での移転でしたが、天下統一が現実のものとなった時に「安土城」を建てています。

おそらくここで日本国内の統一を完成させ、次に拠点として目を付けたのは大阪でしょう。

当時ここにあった、信長を大いに手こずらせた「石山本願寺」の繁栄ぶりから、この立地に目を付けていたのは間違いありません。

築城~移転を繰り返しながら、試行錯誤して理想の城と街づくりを追求してきた信長が建てる大阪城はどのようなものだったでしょう?
大阪の街もどのようになっていたのでしょうか?

叶わない事ですが、見てみたかったと心から思ってしまいます。



「安土城」から見える信長の野望

安土城を拠点に天下統一を成し遂げた後、信長の次の目標はどうだったか?

番組では、安土城からそれが窺い知れるとしていました。

地下1階地上6階の全7階建ての「安土城」。
地上5階の八角形部分の内部は神々しい仏教画が描かれ、最上階には黄金色で統一された中国皇帝の理想図が描かれていたとされています。

この事から、次に信長が目を付けたのは中国ではないかと想像できるのです。


信長の海外進出はどんなもの?

ご存じの通り、後を引き継いだ秀吉の「朝鮮出兵」は完全な失政でした。

おそらく、彼は信長が次に北にある大国を狙っていることに気付いていて、それを彼なりに解釈して実現したと思われます。

その解釈とは、天下統一が成立したあと手柄を立てた家臣に与える土地は国内にはすでになく、ならば他国からもぎ取ろうというものでした。

では信長は実際にどのように考えていたのでしょう。

以下は私の妄想した信長の計画です。

1、大阪から瀬戸内海を経て海外への航海ルートを確保
2、朝鮮、または中国へスパイを送り探らせる
3、内情を知った上で、攻めるか貿易かを決める

「安土城」の壁画だけでなく、外壁も中国の皇帝を思わせる青と金を配色している事から、中国に対して強いあこがれを持っていたと思われる信長は、最終的に中国と関係を持とうとしていたようなのです。

策士で用意周到な信長は、少なくとも、いきなり攻め入って秀吉のような失敗はなかったのではないかと思えるのです。

信長が天寿を全うしていたなら

誰もが思う究極な妄想ですが、もし、「本能寺の変」がなかったら、その後の日本史は大きく違ってきます。

徳川幕府も、
幕末・維新も、
なかったかもしれない。

そして、薩長が作り上げた軍国主義もなかったとしたら、昭和の時代も全く違ったものになり、現在の日本の世界との関係性も違ったものになっていたかもしれません。

たらればなんて歴史には邪道な考えですが、今までの日本の歴史の流れを思うと、「信長の突然の死」は日本の大きな枝分かれとなったのです。

今年の大河・「どうする家康」だってなかったでしょうし、また違う物語が繰り広げられた可能性を思うと、なんとも不思議な思いに駆られてしまいます。



織田信長と坂本竜馬しか知らない主人と番組を観ていたのですが、近々、「安土城跡」へ行こうという話が浮上しました。

行きたい気持ちは大きいのですが、私としては体力が心配です。

以前、千早赤坂城址に上った時の苦しさは相当なもので、ここもそれを超えるものなら、上り切れるものかどうか自信がありません。

どなたかもし、安土城跡を上った方がおられましたら、率直な感想をお伺いしたいものです。




【参考文献】
刀剣ワールド
Wikipedia

※サムネイル画像はWikipediaより引用

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