世の中のあらん限りやスエコザサ
タイミングがかなり遅くなりましたが、NHK朝ドラ「らんまん」の感想を書いてみます。
感想というより、元となった牧野富太郎博士とその妻・壽衛についての史実を拾って、思うところを書いてみます。
私はいつも朝ドラは観ているのですが、そのモデルとなった方の史実をザッとネット検索して調べます。
その上で、ドラマのストーリーの創作性を楽しむのが好きなのです。
今回もいつも通りまずは元の史実を確かめてから、毎日鑑賞していて、最終回を見終わった時、なんとまぁキレイにまとめたなと感心してしまいました。
いろいろ調べてみると、なるほどこれはNHKでは史実通りには描けないわ💦
モデルの牧野富太郎氏は植物界の第一人者ですが、人としては逆の意味で極め付きの人物なのです。
日本史上では、良妻として名高い山内一豊の妻・千代が有名ですが、この壽衛の献身ぶりを見ると千代など足元にも及びません。
私はむしろ牧野富太郎氏の人生より、妻・壽衛の人生に感動せずにはいられませんでした。
借金と女と癇癪
実家を破産させる
土佐の裕福な造り酒屋に生まれたのを良いことに、その財産で散財します。
最初の妻は従妹の猶でしたが、二人目の妻となる壽衛と内縁関係になり、子供まで作りながら、それでも猶に研究費や生活費を要求し続け、後に離婚させられても、その状態は続いたようです。
その額が嵩んで、ついに実家は破産してしまいます。
猶もスゴイですね。
夫が勝手に女を作っても資金を送り続けるなんて、どんな感覚だろうかと思ってしまいます。
ドラマでは綾(佐久間 由衣)にあたりますが、夫婦ではなく完全に最後まで姉でしたし、万太郎(神木隆之介)も自らお金を要求していませんでした。
長女の病気にも知らん顔
破産寸前の実家に戻った際、たまたまクラシック音楽に目覚め、その普及活動にと巨額の支援をします。
その活動にのめり込んでいる間に、幼い長女は病気で他界してしまうのです。
実は牧野と壽衛の間には13人もの子ができましたが、そのうち7人だけが成人しました。
言い換えれば6人もの子どもの死を看取ったのですね。
そのたびに牧野自身はやりたいことをしていたようです。
支援者をも裏切る
東大教授の助手として雇われたものの、月給はわずが15円。
それで子だくさんの大家族を養い、植物採集への旅費、高価な学術本の購入などが賄えるわけがありません。
借金は50円から2000円、さらに3万円となり、現在の価値で数億円にまで膨らみました。
驚くことにその借金を肩代わりしてくれる支援者が現れるのです。
三菱の創業者岩崎弥太郎の弟・弥之助(皆川猿時)、
資産家で美術品コレクター・池長孟(中川大志)の二人です。
しかしながら、それらの支援金も研究費に使うのではなく女郎屋で散財してしまうのです。
おまけに池長が良かれと付けてくれたメイドににまで手を出す始末でした。
ちゃぶ台をひっくり返す
自分は外で好き勝手放題しながら、家族に対しては大変な癇癪持ちで、気に入らない事があるとちゃぶ台をひっくり返す事もしばしば。
「巨人の星」の星一徹みたいです💦
とてもじゃないですが、神木隆之介さん演じる万太郎からは程遠いものだったようです。
盲目的な妻の献身
死因は卵巣か子宮の癌?
さて、妻の壽衛は昭和3年(1928)2月に55歳と言う若さで永眠しました。
死因は当時はまだ原因不明であり、治療のしようもなかったようですが、「子宮癌」もしくは「卵巣癌」ではないかと推測されています。
かなりの自覚症状があるにもかかわらず、家族にも悟られないように過ごしていたのは、心配をかけたくなかったのと、病院にかかる治療費を捻出させたくなかったようです。
何もかも夫の研究の妨げとなるからでしょう。
それにしても13回も次々に出産を繰り返していたら、そりゃ婦人科系の病気にもなるでしょう💦
14歳の少女と25歳の青年
二人が出会い、牧野氏から一目惚れされて求婚された時、驚くべきことに壽衛はまだ14歳でした。
ちょっと感覚的に理解できませんが、今で言うと立派な社会人と中学生ですよね。
よほど牧野が幼かったのか、壽衛が早熟
だったのか。
逆に言えば、まだ世間知らずだったからこそ、夫の横暴にも耐えることができたのかもしれません。
我が家の貧乏は名誉あるもの
このような壽衛の言葉が残されているのを見つけ、気持ちが重くなりました。
借金に女、癇癪という悪癖に耐えながら、こんな事が言える妻がいるでしょうか。
しかもドラマのように一か所に住み続けられたわけではなく、実際には家賃が払えず約30回も引っ越したため、助けてくれる隣人もいなかったのです。
人としての夫より、学者としての夫をひたすら尊敬し続けることができたのはどうしてか。
普通ならとっくに見捨ててもいいはずなのにと、自分の身に振り替えて考えてみたら、とうてい理解できないのです。
それでも、13人の子を産みながら、子育てをして、さらに自ら料理茶屋を経営して、生活費と研究費を捻出し続けるなんて、並の妻ではありません。
これは奉仕と言うより犠牲です。
壽衛は報われたのか?
壽衛のおかげで手に入れた、現・東京都練馬区東大泉の自宅は、今は「牧野記念庭園」として開放されています。
しかし、一番の貢献者である壽衛はここに新居を構えてたったの2年で病没しました。
彼女にとって最大の目標の「植物図鑑」も観ることは叶いませんでした。
3206種類の植物が掲載された「牧野日本植物図鑑」の初版は、さらに12年後の昭和15年(1940)の事でした。
なんとも残念な事ですが、せめてもの救いは牧野が「理学博士号」を取得したのが、彼女が没する1年前の事でしたので、これだけでも安堵できたのではないでしょうか。
これも知らずに逝っていたら、あまりにも可哀そうすぎます。
時代に選ばれた人
~芸のためなら女房も泣かす~
これより少し後に誕生した落語家・桂春団治を歌った「浪花恋しぐれ」ですが、この歌の通り、明治に生きた男の倫理観と言うものはこういうものだったのか。
これだけ家族や周りに迷惑をかけていたら、普通なら大炎上して干されます。
それどころか日本の植物学界の英雄的存在として、今も語り継がれているのです。
彼は遅咲きではありますが、時代の寵児として選ばれし者なのでしょう。
豪商の家に生まれた事も、
理解のある猶と壽衛という二人の妻、
そして借金を肩代わりしてくれた二人の恩人。
ここぞという時に救世主が現れるは、牧野の生まれ持った運なのでしょう。
例えば、戦国の魔王・織田信長や幕末の坂本龍馬などが革命児といわれたように、かれもまた日本の植物学に革命をもたらす使命を担っていたのかもしれません。
彼らには、どうしても人々の心を捉える溢れるような「魅力」があったはずです。
一途に物事を探究し続ける牧野の姿勢は、周りの人々の胸を打つだけのものがあったのでしょう。
最愛であるはずの妻が病床に臥しても、ひたすら植物採集と研究を続け、その倫理を超越した姿勢は、全ては革命を成し得るために、時代そのものが彼を選んだのだと思えるのです。
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
図鑑の最後に掲載された「スエコザサ」とともに、この短歌に込められた思いこそが、牧野の妻に対する感謝の念と愛情であると思いたいものです。
【参考サイト】
・短歌のこと
・社会科関連徒然語り
・Yahoo!ニュース
※トップ画像はAC写真よりDLしました。