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ただ今、幸せのために社会的承認欲求を破壊中

2020・06・27

私は子供の時から、キラキラした姿で働いて、大金を稼いで、大きな家を建てて、、、そういう幸せな未来を想像してきた。

仕事で成功するには、自分のほとんどの時間を投資しないといけない。

じゃあ自分が一生を捧げられる仕事って何だろう?

一生かけてスキルを磨いてその道のプロフェショナルになりたい

そう思って、大学に入ってすぐ自分の適性ややりたいことを探すために奔走してきた。

でもこの4年間、その問いに向き合ってきた結果、

「仕事で100%自己実現をするのは無理だ」

という結論に至った。


仕事で成功する、

名誉を得る、

多くの人から認められる、

賞賛を受ける

というのが、以前の私が考える「キラキラした将来の姿」であり、

今は、これらが人間にとって本質的な幸せではない、ということに気付いたからだ。


学生の頃は、毎回テストで5位以内を維持し、

体育大会でもリレー選手に選ばれ、

部活動ではメダルを持ち帰ってきて、様々な場で注目を浴びた。

先生からも友達からも、親からも賞賛を受け続ける、

それが私にとっての「成功」であり、自分の輝く姿だった。


だから、大人になってもそのようにやっていくのが正しいと思っていた。


しかし大学に入ると、突然「人と比較した評価」というのが一切なくなった。

そもそも評価のための決められた枠組みも無くなり、全てが自由になった。

所属する団体

自己研鑽の仕方

経験・体験

付き合う人達

お金の使い方

あまりに自由すぎて、今まで言われたことを完璧に成す事で褒められてきた私にとって、そこは全く活躍できる場ではなかった。


闘い方、というかそれ以前に闘う場所が分からないのだ。

試しにいろいろな場で挑戦してみたものの一人で手探りな状態で彷徨う自分の行動に自信が持てず、それからは自分の内面と向き合う時間が多くなっていった。


「輝きたい」

そう漠然と思っているけど、そもそも自分が思う輝く姿ってなんなんだ?

今見れば最高に輝いてた学生時代には、「大人になったらもっと輝いて幸せになれる」と思ってた。


自分にとっての幸せってなんなんだ?


大学入学からひとしきり悩み切った一年半の間に思い出した

「今まで生きてきて最高に幸せだと感じた瞬間」は意外なものだった。


小学校の時、大好きな友達3人と空き地でドロケーをして走り回った放課後


夕日が差す高校の放送室で、部員達とこのまま永遠にしゃべっていたいと思ったあの時


何年経っても、今の今まで覚えてる「幸せな瞬間」は、

大会で優勝した時でもなく、たくさんの人前で褒められた時でもなく、

なぜか友達と過ごした何気ない日常の中にあった。



人それぞれ、欲しいものも、幸せの形も異なるけれども、

私にとっての幸せは、誰かと尊敬し思い合うことなんだと思う。

私は小学校のいつめんをとても尊敬していた。

その彼女たちと、放課後遊びという、本当の仲良しが集まる時に一緒に遊ぶメンバーの一員であるという喜び。

高校の放送部でも、私は仲間をとても尊敬していた。

放送室という自分たちだけの空間でお喋りしながら、大好きなみんなが私の発言に笑うのを見て、チームを和ませる存在になれている喜び。


こう見ると、大切な人達に喜んでもらうことが自分の幸せなのかもしれない。


以前は自分の好きな事を仕事にすれば、楽しく仕事が出来て、活躍もできて、幸せな未来が待っていると思っていた。

でも、好きな事をやるとか社会的に成功するとかよりも

大事な人と幸せを共有する時間、大好きな人達に尽くす時がもっと幸せだと気づいた。


でも正直、人から「あの人は成功した」「あの人は輝いてる」と思われたい気持ちはまだある。

みんな普通成功したいと思うでしょ?

私は、「仕事は一般事務で良い」とか「地元で適当な仕事をしながら両親と暮らす」とかいう話を聞くと、正直、そこまで野心を捨てて大事な人と過ごすという幸せに人生の目的を振り切ることは出来てないな~って思っちゃう。

ここからは自分の野心の残存を打ち砕くために言うけど(笑)たしかに、人から評価される事と、本人が幸せかどうかっていうのは全く異なる。

私は一生をかけて自分の表現を追求する芸術家に憧れるから、芸術家を例に出すけど、

人生懸けて磨いた技と表現は本当に素晴らしいし、

それに心打たれて感動する人々を見ると、

私も感動させる側に行きたい!!

影響力のある人になりたい!!

多くの人から「凄いね~!!」って言われたい

という衝動が起こる。

みなさんもないですか?そういうこと。


でも、その道で認められるレベルになるには血反吐を吐くような努力と忍耐が必要だし、現実的に考えた時に自分にそれほどの情熱があるのか?っていう疑問が生じる。

そしてその表現に向かう「情熱」っていうのは、「どこか満たされない想い」から来るものだと思う。

自分の中に、誰かに分かってもらいたい何かがあって

他者に分かってもらえず苦しい思いがあって

どうにかして、心の奥底で渦巻くこの塊を外に出したい

この思いをどう表現したら人が共感してくれるだろうか

いや、他人がどう思うかは関係ない

自分の中にあるこの世界を完璧に表現した傑作品を絶対に作り出してやる

とかね。


こういう、人間の孤独、寂しさ、嫉妬、怒り、苦痛、認められたい気持ち

様々な「満たされない想い」が芸術家の腕を上げ、表現活動に拍車をかけるのではないだろうか。

でも、私は神様に出会ったことによって(聖書勉強中)、この「満たされない想い」というのがどのように満たされるのかを、分かってしまった。

だから、「満たされない想いを満たすために一生をかける芸術家」にはなれなくなってしまったと思う。

憧れだったけどね。

将来は、芸術家のように一生をかけて技を磨いて人に認められる仕事がしたいと思っていた。

だけど技を磨くための、また多くの人に認められるためのモチベーションがなくなってしまった。

思えば、今までの私にとって、何かを行う時のモチベーションは「大勢の人に認められること」だったかもしれない。

うん。そうだ。

人に認めてもらうために、またもっと認められる自分になるために

これまで行動してきたと思う。

そして今でもそれが少し残っていて、それが私を生き辛くさせている。


承認されることは確かに気持ちいい。

麻薬のように興奮を呼び、気持ちが高ぶり、何度も欲しくなる。

でも、本質的な幸せがそこにないと薄々気づいている今、私は手近な気持ちよさを求めてしまう自分の思考の癖を打ち壊さなければならないと思う。

私にとっての本質的で何年たっても消えない幸せは、さっき言ったように、

大切な人と心を通わせる瞬間だ。

お互いを尊敬しあった瞬間、お互いを最高な奴だなと思った瞬間、

この人と一緒にいることが最高に楽しいと思った瞬間

相手を心から愛し、相手に心から愛されていると思った瞬間

そういう瞬間を共有することが私にとって最も幸せな瞬間だと思う。


大勢の人の承認を求める人生ではなく、誰かと最高に想い合う人生に変えたい。

そうすることが結局は、自分を認めてくれる人をだんだん増やすことに繋がってくんだよね。

それは、想い合いたい相手が神様だからっていうのも大きい

神様に認められる人になったら必然的に周りからも認められる人間になるにきまってるから!

社会からの、大勢の人からの承認を求める自我を壊すのはなかなか大変だけど、今は地道にこれに向き合わなければと思う。

十年後の未来の私が輝くために、今、自分を変えてあげたい。






サポート代は、神様が喜ばれることに使おうと思います。 神様が愛する人々のために、あるいは教会のために、あるいは日曜日に神様にあげる花代にしようと思います。