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人類はなぜ、自炊という営みに挫折するのか

5年半勤めた前職を辞めて2ヶ月弱経ちますが、今のところ自炊を軸に食生活を回すことに成功しています。
正直言って、2ヶ月前にはまったく考えられなかった事態です。当時はキッチンと家庭内別居してました。

とにかく今後の至上命題は、定着しつつある自炊の習慣を絶やさないこと。
そのための戒めの意味も込めて、人が自炊という営みに挫折する4つの理由を、ここに記しておきたいと思います。
裏を返せば、この4つの理由に上手に対処できたなら、きっと自炊の習慣は身に着くはずです!

(1)手抜きの仕方が洗練されていない
(2)「うまい」のハードルが無駄に高い
(3)買い物できる環境が整っていない
(4)心身ともに疲弊しすぎている

それでは、参りましょう!


(1)手抜きの仕方が洗練されていない

自炊の習慣を阻害する、心構えの面での最大要因として挙げられるのが、「手抜きは良くないことだ」と考える生真面目さです。

手抜きなんか、したらいいんですよね。

昨今では、リュウジ@料理のお兄さん(Twitter: @ore825)をはじめとするトレンディな料理研究家の方々が、時短レシピをさかんに提唱しておられることで、
手抜きを是とするメンタリティもだいぶ浸透しつつあるように思います。
レシピそのものの有用性も疑いないのですが、僕個人としては、リュウジさんの最大の功績は「料理なんか別にサボっていいんだよ」という哲学を、そのラフなスタイルで身をもって示されたことにあると考えます。

それでも、
「ちょっとでもいい味付け」
「ありきたりな食事はイヤ」
「主菜+副菜+汁物+主食」
「あわよくばインスタ映え」

みたいな欲が多少でも出始めると、途端に正解がよくわからなくなります。
僕もこういう見栄とか欲張りのせいで何度となく失敗しました。

(2)で述べることとも関わりますが、単に食生活としての充実を目指すだけなら、上に挙げたようなプラスアルファって余計でしかないんですよね。
たんぱく質なんて、厚切りにしたベーコンをテフロン加工のフライパンでちゃちゃっと焼いたらめちゃくちゃおいしく摂れます。油も引かなくていいしすげー楽。
塩コショウしかしてないスクランブルエッグだって、空腹というスパイスがあれば大したごちそうです。

ビタミンや食物繊維も、生野菜を適当な量むしってかじれば充分摂取可能です。
それだって、ちょっと高いドレッシングをかけたり、味噌とマヨネーズとニンニクをじゃじゃっと混ぜただけのソースをディップしたりすれば、無限に食べられるやみつきメニューになります。

本当の意味での心身の健康だけを考えるのであれば、調理なんてワンステップもあれば充分なのです。
丸2日かけてビーフシチューを煮込んだり、料亭の味めがけて金目鯛の煮物を作ったり、なんて凝ったことをしなくても、食の面で自分を満たすのは結構簡単です。
プラスアルファはあくまでプラスアルファであるということを、きっちり線引きして認識できれば、自炊のハードルはぐっと下がります。

しかも、今の人たちは何が恵まれているかって、色んなものを外注できる環境がめちゃくちゃ整っていますよね。
おいしい味付けをしようと思ったら、ちょっと高いお金を出して、有名店のドレッシングとかソースとかに手を伸ばしてしまえばいい。
カツ丼食べたいけどカツ揚げるのはめんどくさい、となるなら、カツはスーパーの出来合いを買えばいい。
使えるものは使う、と割り切るのは悪いことではありません。
極論、今日はメシ作る気ならねー!!となってしまったら、コンビニや外食に頼ってしまえばいい。「毎日自炊しなきゃ!」という義務感を捨て去ることもまた、自炊のハードルを下げる思考と言えるでしょう。

もちろん、自力で食生活を回していくうえで必要となる最低限の条件はあると思います。
体調を維持できる程度の栄養バランスについて把握していることや、食欲を失わせるほどまずい味付けをしないこと、などなど。
言ってみれば、これらの最低水準をクリアできていない行き過ぎた「手抜き」も、自炊から自らを遠ざける、という点には留意が必要です。

適度で洗練された手抜きができるかどうかは、自炊が長続きするか否かの大きな分かれ道と言えるでしょう。


(2)「うまい」のハードルが無駄に高い

これもなかなか根深いと思います。

「芸能人格付けチェック」で、名だたる有名人がことごとくグルメ問題を外していくことからもわかるように、味覚って視覚をはじめとする外的な情報に相当左右されるものなんですよね。
見た目、誰と食べているか、その食べ物が与えられた社会的な評価(産地やランク等)、文脈とのマッチ具合(クレープって結局竹下通りで食べるのが一番うまい気がするよね)などなど、実にさまざまな要因に影響されます。

こういう外的な要因を「余計なもの」とみなすか、「食を彩るもの」とみなすかは価値観によるでしょう。
ただ、自炊という営みの目的を「自身の栄養的なニーズを自らの手で満たすこと」と最小化する場合、上記のファクターを成果物の評価に持ち込むのは割に合わないと思います。

自宅で低コストに栄養的なニーズを満たせることこそが自炊の良さであり、最終的な目標でもあります(とここではあえて言い切ります)。
この目標に照らして考えるなら、コンビニの袋入りサラダや粗挽きウィンナーだってそれなりに高く評価できるわけです。
というか、ある目標に照準を合わせる身構えになると、「うまい」という感覚の基準も、「目標の達成に資するものであるかどうか」に自然と寄ってくるように思います。不思議なことに。

つまり、大いにシチュエーションによりますが、僕は今となっては、ベビーリーフにキューピーのドレッシングをかけただけの手抜きサラダと、大好きな家系ラーメンとを、フラットに考えることができます。
どっちもおいしいのです。
ただ、それぞれが満たしてくれるニーズというのは全然違うので、同じ評価軸に乗せてしまうと正しく価値を測れなくなります

脂やうまみたっぷりの濃厚スープと中毒性バツグンのモチモチ太麺がもたらす暴力的なジャンキーさに溺れる快楽を至上とする尺度を当てはめれば、どんなに美味なドレッシングでびたびたにしようと、チビた葉っぱがラーメンに勝る目はないでしょう。
でも、ビタミンやミネラルを渇望する身体からすれば、家の食卓に並んだチビた葉っぱはまぎれもない「ごちそう」になるのです。

文脈に依存しない、「食べて、欠けたものを補う」という丸裸の食を楽しめる人であれば、自炊の喜びに気づくことは難しくないと思います。
対して、誰かが付けたランクやしつらえられた物語に根拠をもらわないと食を楽しめない人にとっては、自炊で自らを満たすのは難しい。
もちろん、食事そのものよりも食事を取り巻く諸要素にこそ価値を感じるのだ、という人たちの価値観に異を唱えるつもりはありませんが、
こうしたあり方は、「うまい」の閾値をむやみに上げるのみならず、色そのものに由来する「うまい」への感度を鈍らせるものとなりうる点には留意しておいてよいでしょう。

「映え」や、「偉大な名店秘伝の味」といった肩書きに価値を置きすぎるあまり、シンプルな食を「貧相」と感じてしまうような場合、そしてそれでいて食生活に物足りなさを感じているような場合には、
自分が食に何を求めているのかを、立ち止まって考えてみるのもよいような気がします。


(3)買い物できる環境が整っていない

気の持ちようで解決しがたい、それでいてかなり影響大な理由がこれです。
徒歩5分圏内にスーパーがあるかどうかの差ってすごいですよ。
自炊したいのに最寄りのスーパーが1キロ以上先……って人、すぐ引っ越したほうがいい。お前だよ、昔の俺。なぁて。


(4)心身ともに疲弊しすぎている

これもちょっと気の持ちようだけでは救いきれない部分はありますね……。
(3)以上に重要な要因というか、自炊云々を考えるより前にまずこちらをなんとかしたほうがいい、というタイプの問題だと思います。いったん休んだほうがいい。
いっそ休むってやっぱり大事だよね、ということについて書いた過去の記事を2本ほど貼っておきます。

    *

以上、何度とない挫折を乗り越えて、ようやく自炊の習慣を端緒につけつつある人間による、自戒の意を込めた考察でした。
仕事をぼちぼちと再開してからも、ランチは弁当を持参したり、家では基本的に自分で作ったご飯を食べたりと、充実した自炊ライブを満喫しています。
生活に組み込めてしまえばこんなに快適なことはないと、つくづく実感している次第です。

ということで、お読みいただきありがとうございました!明日も弁当つくるぞ!

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