「自信を持て」というアドバイスはクソキモい。それでも、自信に満ちた人の顔は清々しい。【宿題】

アカペラサークルで大して歌が上手くない人間が上手くやっていくにはどうしたらいいですか?

前回の記事で、「上手くやりたいと思うなら、まず『上手くやるにはどうしたらいいか』という問いを捨てるべし」といった内容を書きました。
(詳しくは下記参照ください。)

自分で言っておいて何ですが、「上手くやろうと思うな」って結構残酷な物言いですよね。
「上手くやりたい」という希望だって、とにもかくにも一つの指針です。それをまず手放せというのは、たった一本持っている杖を捨てろと言われるに等しいかもしれない。
捨てるだけ捨てさせておいて、それに代わる支えについて何も伝えないのは、無責任とさえ思えます。

ということで今回は、自信をつけるための考え方について、責任を果たすべく(?)書いていきます。

   *

ところで、僕は「自信を持て」というアドバイスが嫌いです。そして昔は、今以上に大嫌いでした。
多少自分に自信を持ててからは、いくぶん冷静に眺められるようになりましたが、それでもこのアドバイスには、ある種の気持ち悪さを感じずにいられません。

「自信」という言葉は、射程が広すぎて掴みどころに困るのです。
しょっちゅう使われるわりに、その場その場で意図されているニュアンスは大きく違ったりします。

厄介なのは、「自信を持て」と言い放つ人の大半が、この言葉の曖昧さに無頓着なことです。
だから僕は、このアドバイスが好きになれません。

そもそも一部の人たちにとって、自信とは持とうと思って持てるものではありません
自分自身の奥深く、地の底のような場所から、苦労して掘り出してこなくてはならないものです。
「あれ取ってきて」「ハイ」みたいなノリで取ってこられるような代物では、到底ないわけです。

他方で、「自信を持て」という人の多くは、自信をどこにでも生えているキノコか何かのように考えています。
しかし、内面に《自信の不毛地帯》を抱える人間からすると、手の届く範囲のあちらこちらにニョキニョキと自信が生えている状況は想像すらできないのです。
このギャップに思いを致すことなくなされるアドバイスが、そしてそのアドバイスに振り回される人が、世の中には溢れかえっていると、僕には思えてなりません。

たしかに自信を持つことはとても大事です。
ですが、そのために必要な手順を知ることはもっと大切です。
すべてを語り尽くそうと思えば本が1冊書けてしまうようなテーマですし、実際探せばそういう本もすでにありそうですが、ひとまず僕なりの言葉で、かいつまんでお伝えできればと思います。

自信とは何か

初めに一言で言ってしまいます。
自信とはすなわち、自己肯定感のことです。

ハイハイ出ました自己肯定感、これさえあれば大丈夫だよ〜万能薬だよ〜的なノリで持ち出される曖昧ワード、それが何かわからんからこちとら困っとるんじゃ、ていうかそんな手垢のついた言葉で話が済むなら誰も苦労せえへんやろボケカスさっさと黙らんかいアホンダラ〜〜〜〜〜!!!

という声が聞こえてきそうですが、どうか落ち着いてください。

言葉ってやっぱり難しいのです。
「自信」ほどではないにせよ、「自己肯定感」というタームも、それなりに用法に揺らぎがあります。
使う人、受け取る人によって、そこに読み取る意味合いにはどうしても差異が生じます。
これはもう、言葉そのものに付随する宿命のようなものです。だからこそ、言葉を使うときには気をつけなくてはならない。僕はそう思います。

さて、「自己肯定感」です。

以下の表はWikipediaの「自己肯定感」のページから引用してきたものです。別にちゃんと見なくても問題ありません。

画像1

研究者間でも定義にかなりの揺らぎがあることがわかります(それだけわかっていただければ十分です)。
しかも、この引用元ページにも記述があるように、「自己肯定感」の類似概念として、「自尊心」「自己存在感」「自己効力感」等々、似たり寄ったりな言葉が山ほどあります。

ここでこれらの言葉の意味を仔細に検討するつもりはありません。
と同時に、この記事が学術的な厳密さを目的としたものでない点も、はっきり宣言しておきます。
あくまで僕は、「自己肯定感」というワードの響きと大意が、自分の言いたいことを表現するうえで比較的しっくりくるから用いているにすぎませんし、だからこそ、本記事での自分なりの定義を示しておかなくてはならないと考えています。

前置きはこの辺りにして、話を進めましょう。

僕は「自己肯定感」の内実を、

自分の外部に根拠を求めることなく、自分が在ることを肯定できている感覚

と捉えています。

つまり、「僕は○○だから生きていていい」とか、「私の存在意義は○○にある」という、外部からの根拠づけなしに、とにもかくにも「僕/私は生きていていいんだ」と感じられていることこそが、自己肯定感を持てている状態だとみなしています。

サークル活動などを「上手くやらなくては」と思っている人は、たいがい自己肯定感が薄いのです。
歌が上手くなくては、コミュ力が高くなくては、友達が多くなくては、音楽に精通していなくては、サークルに「存在していてはならない」。
サークルにいるためには、何であれ裏付けがなくてはならない。
存在するには根拠が欠かせないという思考が根付いている人たちにとって、理由なくコミュニティに属していることは不安や苦痛の種になるわけです。

人によってはおおよそ理解できない感覚かもしれません。
しかし、とてもよくわかる、という人も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

東大に入ったら人生やめたくなった話

僕は東大出身です。
中学をトップの成績で出て、地元でトップの公立校に入学し、そこでも成績上位をキープし、文科一類にも余裕で手の届く点数で東大に現役合格した人間です(※実際に入学したのは文科三類です)。

でも、僕は大学に入るやいなや、何を根拠に生きていけばいいのかわからなくなりました
大学は(少なくとも東大は)、統一的なテストのスコアの高低で個人にランクがつけられる場所ではないからです。

それまで僕を支えていた「学力」という尺度が通用しない環境に踏み入ったとたん、僕の存在は揺らぎ始め、不安と孤独に絶えず襲われるようになりました。
将来どうやって生きていくか、ビジョンはまるで見えませんでしたし、
周りの人たちに嫌われているのではないか、好いてくれる人たちにもいつか見放されるのではないかという疑念が、いつも心にまとわりついていました。

この不安定な状態から、僕は長らく抜け出せませんでした。

就職活動も難航しました。
やりたいと思える仕事が、本当に見つからなかったのです。
それもそのはず、「何かをやりたい」という感情をそもそもきちんと理解できていなかったのですから。

いわば僕は、「やりたい仕事」という言葉を、「自分が一生を生き抜くための根拠にできる仕事」と読み替えていました。
でも、そんな絶対的な存在基盤になるような仕事など、この世にはありません
転勤、異動、職場の人間関係、経済変動……あらゆる要因によって、仕事の風向きなどというものは簡単に変わります。

最終的には、小さな出版社から内定をもらい、そこに就職しましたが、5年間勤めたのち、結局すべてがイヤになって辞めました。
文章を書くことが好きで、本もそれなりに読んでいたため、出版業界に対する憧れは強かったものの、中に入って内実を知るにつれて嫌気がさしてしまったのです。

今でこそ、僕は転職して全く異業種の会社で楽しくやっています。
しかし、ここまでの道のりはなかなか暗く険しいものでした。

骨抜きの「いい子」

上で見たように、僕は大学在学中、ずっと不安で苦しくてたまりませんでした。
そこからなぜなかなか抜け出せなかったのか、今となっては多少わかります。

僕は幼少の頃からずっと、親をはじめとする大人たちの評価を(知らず知らずのうちに)意識して生きてきました。
自分の「やりたい、なりたい」より、どうしたら褒めてもらえるか、どうしたら怒られずに済むかを重んじて、自らの振る舞いを決めてきました。
それは自ら選び取った戦略というよりは、生育した環境に仕向けられてのことでした。

そして、僕は実に上手くやり抜きました
褒められ、評価され、叱咤をかわすことで、大人が作った序列のトップに君臨し続けられたのです。

存在する根拠を自分の内に持たない僕は、周囲から存続を許してもらうために、「優秀ないい子」であり続けました。
存在の根拠を与えてくれる大人たちから見離されるリスクに比べれば、自分の「やりたい、なりたい」など、ちっぽけなゴミのようなものでした。
僕は存続のために自分自身の欲求を削りたおし、周囲からの期待をあたかも初めから自分自身の欲求であったかのように読み替えることで、存在するのに必要なエネルギーを獲得していたのです。

東大というゴールにたどり着くと同時に、周囲からの期待や評価というエネルギー源を絶たれた僕は、あっという間に自分の存在理由を見失います。
物心ついてからずっと自分を支えてきた拠り所に代わるものなど、そう簡単には見つかりません。
そもそも、それまでずっと他者の評価を当てにしきっていた人間です。
自らにとって適切な評価軸を、新たに自力で見つけ出すための眼力は、それまでの十数年間ですっかり衰えてしまっていました。

いわば僕は、ほぼ骨抜きの状態のまま、大人になることを余儀なくされたのです。
僕はその後、すっかり痩せ衰えた自分の骨を目を凝らして見つけ出し、それを人並みにまで太くする作業に、長大な時間をかけることになります。

では、身につけるべき「自信」とは何か

自分語りはこの辺りにして、本筋に戻りましょう。
「上手くやりたい」と願う人が、まず真っ先に取り戻すべき「自信」、「自己肯定感」の話です。

僕に言わせれば、自己肯定感とは、「自分自身の声にきちんと耳を傾けられている度合い」に他なりません。
「これがいい」「これは嫌だ」と感じる自身の本心を認識していて、そしてそれをーー誰に何を言われようともーー自ら尊重できているという感覚、それが自己肯定感です。

「なんだ、大したものじゃないな」と思う人もいるかもしれません。
しかし、「サークル生活をどうにか上手くやりたい」と願うような人にとっては、この感覚を取り戻すのは本当に困難です。
いやあるいは、困難であることにすら気づけないかもしれない。それくらい面倒なものです。

自己肯定感を身につけることは、何か立派なことをしたり成功を収めたりすることで褒められる自分になっていく、ということとは全く違います。
言ってみればリハビリに近いものです。
数年、十数年、人によっては数十年、押し殺し麻痺させてきた自分自身の感性を、苦労しいしい取り戻すプロセスであり、その道のりはきわめて地味で地道です。
奥底で縮こまった自分を発見し、彼が感じ思うところを知り、その声に耳を傾けられるようにするという、なんとも華のない作業なのです。

これがときに難しいのは、いわゆる「いい子」であればあるほど、外から与えられてきた価値観やルールによって、自らの感性が鈍っているからです。
鈍っているどころか半殺しにされて、すっかり別のものに取って代わられているケースもあると思います。
つまり、親や身近な大人に叩き込まれた規範や価値観を、さも自分の素直な感情や感覚であるかのように内在化させてしまっているようなケースです。

自分自身の感覚がすっかり麻痺した人が、自らの声に耳を傾けるのは、本当に難しいのです。
一瞬かろうじて聞こえたか細い声を、「でもそれはルールに反する」「今まで従ってきた基準と合わない」と、よってたかって打ち消す心の動きが生じるかもしれない。
あるいは、本来の自分になりかわって内在化した親の言葉や大人の価値観が、さも自分自身であるかを装って、「こうするのがいいと思う」「こうしないと間違うよ」と、声を響かせてくるかもしれない。
邪魔者の巧みな妨害をかわして、すっかり痩せ細った自分を暗闇の底から助け出すのには、それなりの手間暇がかかるものなのです。

自信に満ちた顔の人は、決していやらしくない

自分の声に耳を傾け、それを重んじられるようになるには、どうすればいいのか。
それについて、僕はまとまった方法論を持ちません。
きっかけとなった出来事や、ターニングポイントを成す気づきについて語ることはできますが、おそらく断片的になりすぎるので、ここで書くことはしません。
別稿でエピソードと絡めつつまとめていければと思います。

とはいえ丸投げするのもどうかと思うので、二つだけ述べておきます。

一つは、自信を取り戻す第一歩は「自分の好き嫌いを否定しない」ことである、という点です。
好きなものは好き、嫌なものは嫌、欲しいものは欲しい、やりたくないことはやりたくない。誰がどう言ったとか世間の常識はああだとかにかかわらず、その感覚をそれ自体として認めるのはとても大切です。
自分に自信がない人ほど、他人の目線に囚われて自分の感性を歪めています。
見栄を張ったり、人に好かれようとして、感じたことをごまかしていないか、振り返ってみてほしいです。

二つ目は、自分のサイズを知るのが大事だということです。
どんなに頑張ったところで、人間が一生のうちに経験できる事柄や、出会える人の数には限界があり、その限界は世界の広さに比べれば、本当に本当に本当に小さいものです。
僕たちの一生は短く、すべてを賭けたとしても、小さな町立図書館の本すら読み切れるか怪しいでしょう。

でも、翻って考えてみてください。
僕らの小ささに比べれば、世界は本当に本当に広く、多様性に満ちています。
その中で、誰かが作ったルールや価値観が、一体どれだけの存在感を持つでしょう?
そんなちっぽけなものにこだわる必要があるのか、立ち止まって考えるのは大切なことだと思います。
そして、この広すぎ多様性に満ちすぎた世界です。一つくらい、自分に合った居心地のいい場所があると考えて、何らおかしなことはない。
ちっぽけな他人に課せられた縛りに身を委ね続けるより、そういう場所を探して生きるほうが、よほど人生は充実するのではないでしょうか。

自信に満ちた人の顔は、清々しさに満ちているものです。
誰かに抑圧されることなく、自分の感性に従っているために、表情に歪みがないからです。
そして、自分のサイズを知っているがゆえに、自意識過剰に陥らず、他人をも尊重できるからです。
「自信満々」「自信ありげ」などと揶揄される人が、本当に自分に自信を持っているものか、僕は疑わしいとさえ思います。
自分を取り戻すことができれば、きっととても良い顔で、自分の人生を歩んでいくことができると、僕は信じています。

おわりに

またもやクソ長くなってしまった……もうダメなのかもしれない、簡潔に短くまとめる能力が僕には欠如しているのかもしれません。笑

ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます。
本当の自信とやらを取り戻すために少し頑張ってみようかな、なんて思った人が一人でもいてくれたら僕はとても嬉しいです。

さて、本来この記事は、「歌の上手くない人間がアカペラサークルで上手くやっていくには?」という問いへの返答として書いているものです。
いよいよ脱線がすぎると思われてもおかしくないところまで来ているので、次回は本当に、「アカペラサークルでやっていく」ことについて書くことにしたいと思います。
個人的には、歌が上手くなくたってあの手この手で4年間を充実させることはできると考えているので、何かしら書けることはあるはずです。期待しすぎずご期待いただければ。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

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