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「あ、無理だ」の日のコト

その日はたしかに5時間ちょっとしか寝られていなくて、
無理やりいつもどおりの時間に起きて作ったランチの弁当を、保冷バッグにまで入れたのにテーブルに置き忘れて家を出た時点で、今日はもうダメそうだな、というすでに予感があった。
全身が水を吸ったみたいに重たかったし、物を見るのにいつもよりしっかり眼を凝らす必要があって、
できるならもう2、3時間、ベッドで本格的な睡眠をとったほうがよいと身体が訴えていた。

それでも、家にトンボ返りして眠りこけるわけにはいかず、いつもの電車で会社に向かう。
普段なら文章を書いたり、SNSを巡回して過ごすのに、そんな気も起きなかった。
10分弱の乗車時間を、何をするでもなくぼーっとやり過ごした。

それほどダメなコンディションでも、会社に着けば身体は自然と覚醒する。
コートを脱ぎ、コーヒーを一杯流し込み、スーツの裾を伸ばしてデスクにつくと、見栄やプライドや義務感、負けん気や好奇心や成長意欲、その他諸々の感情が心をひたして、頭をクリアにしていく。
覚悟を決めて向き合ってしまえば、仕事はそれなりに捗ってくれるものだ。

18時過ぎまで働いて、ほどよい疲労感とともに会社を出る。

話は少し変わって--。
その頃僕はプライベートの面で、片付けなくてはならない厄介事をずいぶんたくさん抱え込んでいた。
期限が目前に迫っている事柄や、早めに決断をしなくてはならない問題を、累々積み残していたのである。

厄介事まみれの状況はそもそも自分が産んだものなのだが、
輪をかけて憂鬱だったのは、溜まってしまった気の重いタスクたち自体もまた、ネガティブな理由で自ら発生させてしまったものだということだった。
あのときこうしていればこんな面倒を抱えずに済んだのに、という後悔や苛立ちは、面倒に向き合う決意を逐一鈍らせた。

それでもお構いなしに、デッドラインはやってくる。
頭の痛いことには、あれもこれもそれも、決着をつけるべきタイミングがだいたい同じ時点に集中していて、そのこともまただいぶ僕の気持ちを重くさせていた。

覚悟を決め、どうせ片付けるなら一気にと、僕はその日、面倒事をごっそり終わらせにかかることとした。

事の内容についてはここでは触れない。
いずれにせよ、その日は会社を出てからすぐ、事務的な手続きに必要な書類を集めたり、滞っていた金の支払いを済ませたり、連絡を取るべき相手にLINEを送ったり、今後のやりくりについてまとまった計画を立てたりと、先延ばしにしてきた諸々をひたすら処理した。

繰り返すが、この日僕が取り組んだ諸々の事柄は、自分自身の「あのとき、あれをきちんとやらなかった」の積み重ねが生んだ膿のようなものであって、本来べつになくてもよかったものばかりである。
そういうものとひたすら向き合っていると、なんだか自分が怠惰で役立たずな人間に思えてくる。
自分は最低限の義務や、当然行うべき物事さえ適切にこなす能のない社会不適合者なのではないかという、えもいわれぬ不信感でいっぱいになるのだ。

加えて言えば、上記のような物事にはしばしば、謝罪や哀願がつきものである。
「申し訳ない」とか「どうかお願いします」を繰り返しているうちに、目の前の相手はさぞ俺を軽蔑しているのだろうな、という被害妄想めいた卑屈な気持ちも湧いてくる。
しまいには、こんな人間を心から好いたり、本当に親しみを持ってくれる他人などいないのではないかとさえ思われてきて、言い知れぬ孤独と不安が襲ってくるのである。

いっときの考えすぎとわかっていても、心を埋められてしまえばそれがすべてと感じてしまうのが、人間の性というものなのだろう。
元々不安定だった心身に、憂鬱な気分はたちまち浸透していき、
なんとか面倒事を一通り処理したあとも、僕は暗くみじめな気持ちでいっぱいだった。
やりきったことによる達成感や安堵のようなものはまるでなく、むしろ、押しとどめていた疲労がどっと押し寄せたような感覚があった。

ひどく疲れて、うんざりしていた。
この日、僕は疲労とネガティブな感情の波に逆らうのを完全に諦めた。
諦めることを、自分自身に許した。

負けっぱなしで一日を終われない、と奮起して、奪われた分を取り戻すべく何かを頑張る過ごし方もありえただろう。
でも、それをやらなかった。
孤独を紛らわせるために、なるべくどうでもよくてつまらないテレビ番組を、極小のボリュームで流しっぱなしにし、
嫌なことがあるときまって聴く音楽を、耳障りにならない程度の音量でかけ、
スマホもいつもより遠ざけて、少し身を乗り出さなくては手の届かないところに置き、
ソファーでタオルケットにくるまって、何も聞かず、何も見ず、ただ時間の経過に身を任せた

喜びも楽しさもないけれど、苛立ちも悲しみも卑屈さもなかった。
それが何よりも心地よかった。
寝転んでいるのに飽きてくると、なるべく熱いお湯でココアを淹れた。

何もしていないのに、一人きりなのに、何もかもが思い通りのような気がした。
ときどき思い出したようにSNSを覗き込んだりもしたが、どんな呟きもやりとりも、ひどく空疎でつまらなく、ときに刺々しいものに見えた。

何もしないことがあれほど薬になることを、僕は長らく知らなかった。
2時間ほど頭を空っぽにしてごろごろしたあと、立ち上がってみた瞬間、心と体がわずかながら軽くなっていることがはっきりとわかった。
何もしなかった時間は無益で無駄なものだっただろうか?
胸を張って言える。一切そんなことはない。
悔やむべきはむしろ、消耗しきるまで自分を追い込んでしまったことであって、そのときは何もしないことこそが何よりの正解だった。

正直なところ、会社を出た時点では、ほんの3〜4時間後にあれほどの疲労感に襲われるなどとは予想もしていなかった。
案外人間というものは、知らず知らず無理をしているし、ちょっとした巡り合わせで容易にキャパオーバーするのだ。

そもそもキャパシティの上限というもの自体、可変的であいまいなものである。
パフォーマンスの質・量と持ちつ持たれつしながら、いくらでも上がったり下がったりしうる。
だからこそ、「頑張るのをいったんやめて、何もしない」という選択肢を持たない人は、キャパオーバーが起きたときに、パフォーマンスを犠牲にしてキャパの上限を引き上げるという手段に出てしまう。
それを繰り返すうちに、蓄積した疲労の回復はままならなくなり、
あって無いような余力でもって、質の低いパフォーマンスを絞り出すことが常態となっていく。
それが望ましい事態であると、僕には到底思えない。

ひたむきに頑張り続けるのも、自分が頑張れる限界を探ってみるのも、大切なことではある。
でも、それがかえって遠回りになるようなときは、立ち止まってみるのもまた強さじゃなかろうか。
頑張っている人であればあるほど、休むという選択に大きな勇気が要るかもしれないけれど、
頑張り続ける強さがあるなら、立ち止まって一呼吸をついたあとで、また立ち上がり歩き出すこともできるだろう。

疲れたな、と思ったら休めばいい。おかしなくらい簡単にいかないが、やっぱり休むことは大切なのだ。
休むべきか、と思えたときに、素直に身を委ねられるかどうか。
とりあえず逆らわずに従ってみることが、何を差し置いてもまず大切な第一歩だという気がする。

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