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0°Cの針

色濃く身を支配してくる苛立ちに抵抗するばかりの施しも虚しく、0時には魔法にかけられて現実の世界に取り残される。

横殴りの強雨の標的にされた傘一つは、イヤホンの防音と俯きがちな顔だけを残し、涙風の餌食になって9m先に飛ぶ。残像は姿形を微かに保ち、後ろを気づかれないようについてくる。傘に跳ね返る雨粒の音は、直線距離から遮音なしで響く。

自分以外の誰かとは共有できない心音は、歩行者用信号機の点滅に重なって地を少しだけ揺らしている。まるで誰の所有物でもないみたいで、気持ちが悪くなった。

三車線の十字路、右折を試みる軽自動車がこちらを睨み付けている。
明に照りつける青信号が頭上にある今この瞬間に、負い目を感じて対岸まで小走りの義務が生じる。生きている実感が遠のき、この際どこか遠くに連れて行かれたくなっていて、しのごの言わずに早足になる。

ワイパーがひっきりなしに手を振っている。運転者の顔は見えないし、ありがとうとは微塵も感じていないことだろう。誰も、小走りを選択した事実に対して「良」を押印してくれることはない。歩行者の数倍も数百倍も数千倍も長い距離を走って景色が変わる運転者にとって、風景の一部の通行人に興味を示して一喜一憂する暇も余裕もない。

どうでもいい道の先にはどうしようもない目的地。道中の記憶も欲しがっていないはずなのに、その一歩を踏みしめながら自然の恐怖に怯えながら傘一つ。

履きつぶしたスニーカーはとうに浸水して、足先から神経を蝕む。0に近しい数値を指し示して動きたがらない温度計の針先をマイナス方向に誘い込む。

0から遠ざかり、もっともっと遠くに向かって歩かされているとき、向こう側から不気味な様相の一人組が俯いて足早に進んでくる。

気になって、すれ違った1秒後に後ろを目で追っても、思いつきもしなかった。
あんな不気味な人を見たのは久しぶりだ。関わらない方が自分のためになるんだろうな。

雨足が強い曇り空に、人一倍影の濃い誰かとすれ違った。
どうしても頭から離れてくれないのに、もう二度と出会うことはできなかった。

自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。