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変化する到着予定地と明日を手繰り寄せる命綱。

結果的に毎日の投稿が途切れずにここまでやってきているとはいえ、これが書きたい!と燃えてそこにあるものは見えづらくなってしまった。

別に堅苦しいことを書いて、誰かの心に火を灯してやりたいというほどお節介を焼く気はないし、自己啓発で人が変わっていく過程を手助けしようとは思わない。

今以上の結果と環境を目指す熱意のある人には、私は寄り添っていられない。
そこに付け入る隙はない。アドバイスしようとはとてもじゃないが思えない。

強弱の違いこそあれど、志が行動の指標として存在し、行動と心情の歯車がほとんど狂うことがなく回っている人にはあまり興味がない。

そこに介入する意味もないし、そもそもそこにまで達していないから。

そう、私が。

不安定を肯定する

吊り橋を走って渡れる日が毎日だったら良いのに、という思いはまともに叶うわけもなく、渡る前から身の震えが治まらない。

全身を綱に身を任せて、命綱に名前が変わる。
膝から崩れ落ちたままリタイアすることもあるし、スタート地点から動かずにその日を終えることもある。

その位置でずっと立ち竦みながら不安を拭い切ることはできないままだ。

ただ、調子の良い時は、スイッチが切り替わったかのように、ぴょんぴょん跳ねて向こう岸に行ってしまう。
無意識のうちに飛び跳ねて前に進んでいて、落ち着いた数日後には全然違うところに立っている自分に驚かされる。
自分一人で勝手に悩み苦しみ、咀嚼を繰り返して自分なりのやりやすい形に変えていく。
その経験を何度か重ねてみると徐々に向こう岸に行ける回数が増えてきた。

本当の支え

拭い切れないほどの不安に押されているときに喉から手が出るほど欲しくなるのは、無責任な応援でも、背筋を伸ばしてくれる叱咤でもなく、ただ横で見守っていてくれる存在だった。

身を以て一つのアンサーに辿り着いたところで、ときには友人、家族、先人に救われ、ときには独りで落ち込みまくる。今もその揺れ動きは変わっていない。安定する期間は伸びてきたとは言いつつも、落ちるときは今でも全然落ちている。

その代わりに、一人でいる時間を短くすることで、孤独感に打ちひしがれる時間の余裕はなくなるということも体験して自分で発見した。
これは常に明るく楽しくいられる人には意味がない結論だろう。

オンボロの立て札に記した目標

そうだとしても、私は一つの揺るぎない目標を持っている。

不安定で、常に何かしらの不安を感じている人のそばにいてあげたい。

無理やり引っ張ったりはしたくない。いや、絶対にしない。
無理強いはしたくないし自分も大嫌いだから。

ただそばにいてあげて、背中をさすってあげたい。
無理に悩みを打ち明けようとしなくてもいい。言葉が出てこなくても構わない。

どんなときであっても、そばにいてくれる人がいるという事実だけで、独りの自分にどれだけの光が差し込んだか。
感謝してもしきれない。

だから、私は誰かを見捨てたりはしたくない。本人が悩み抜く過程も肯定する。
希死念慮を否定する気はさらさらない。人間として生み出された強い感情として自然なものだ。

その感情を忌むべきものとして本人も世間一般も遠ざけてしまうから、余計に孤立しているように感じてしまう。
常識的に考えれば湧いてこない感情だという通説が世に蔓延り続けるからだと私は思い込んでいる。
逃げ場を見つけきれなかった人はどうするか。もう想像に難くないだろう。

止めるのではなく、導かせない

近年増加傾向にある、自殺に対する議論はとにかく無責任で、「こんな幸せな世界で諦めるとかあり得ない」と言いたい人ばかりが自殺した人を批判している。

本人がどれだけ悩み、その環境下で苦しんできたのかも知らないくせに、「自殺」という事実だけで文句を垂れ流すことしかしない。
そこに焦点を当ててどうするつもりなのか。

暴言は私は苦手です。数年前から言わないようにしようと意識してきていました。

ただこれだけは言わせてください。

傍観者は引っ込んでろ。消えな。

最終的な結論を批判する前に、どうにかその痛みを軽減させるすべはなかったのかどうかが重要なのだ。
たとえ、私が傷つくことになっても厭わない。その人が「生きる」を選択してくれるのであれば。

どんなに恵まれてそうな環境の上に立っていて、著名な方であったとしても、結論を下したのだ。立っている場所と名声は直接的な関係はない。

どうにか体を蝕む毒を解いていくしかないのだ。まさしく茨の道で、こちら側の怪我もただじゃ済まない。

そうだとしても、私は誰かに寄り添い、人のために生きていたい。

この目標にだけは嘘をつきたくない。

傍観者を辞して救世主となれ

今となっては他の明確なやりたいことがあって、その道を突っ走っているつもりだ。

だとしても、もしこれだけの結論と私なりの答えを高校生のうちに見つけられていたとしたら、私は心理カウンセラーの道を志していたかもしれない。

人を救うために貴重な自分の勉強時間を費やしたかもしれない。
上辺だけの付き合いでは見えてこない、その人の深部まで入って靄を消していくために必要な知識を学校にまで通って勉強したかもしれない。

知識量と経験は手に職をつけている方々とは比べものにはならない。アドバイスも最適な対応もわからない。

だからこそ、ただそばにいてあげる。

その人の独りを取り除きながら、私の不安定さも一緒に消していく。

そうやって人との繋がりの連鎖によって、近くの人を大切にできるようになるのであれば、私にとってこれ以上の幸せなことはない。

誰もが人に対してやさしくなれる日が来ることを密かに期待しながら、また誰かの悩み相談に乗りながら、私も毎日を踏みしめながら生きていくのだ。

こんなご時世ですが、体調面だけでなく、精神面もどうかご自愛ください。

余談ですが、私は「コードギアス反逆のルルーシュ」というアニメシリーズが最も好きです。
主人公ルルーシュの妹、ナナリーがずっと望んでいた「やさしい世界」とは、今回書いてきたような内容が該当すると解釈しています。
互いを尊重し、理解し、感謝を伝える。決して独りにはしない。
そんなやさしい世界がきたらいいなと常に考えています。
興味があればぜひご覧ください。
最後までお読みいただき有り難うございました。

自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。