どうせ明日も、

埋め立てられて平地にされていく。埋められる以前の形を第三者は忘れていく。
抵抗した記憶は断片的に残っている。島々のように浮いている部分だけは視認できるのに、姿形の全てを確認することはできない。記憶の一部すらも埋められている。

二度と忘れてなるものかと食いしばって脳裏に焼き付けた光景は、映像としては残っていなくて、その瞬間だけ蘇る。
それは大掃除で棚の奥に眠っていたアルバムから、苦い思い出の写真が突然出てきたかのよう。走馬灯のようにフラッシュバックするのと近しい感覚だと思う。

起きている状態を保とうと意識は向けながらも意識は遠のいていって、力を入れられる箇所も減っていく。自然と横になって起き上がれなくなる。

たぶん、気を失うまで生きていたいと思ってるんだろう。
下書きには語順が曖昧で誤字混じりの字の連なりが残っている。文と文に重なりはない。重なり合って一つの作品として成立させるほどの思考の余裕はないから、なんとか振り絞って生まれる一文を何個も書いてしまう。

物語を象っただけの字の羅列。

こちらが物語です。

そう言わんばかりの投げやりさと理解の難しさは胸に残ってモヤモヤを与えるだろう。まるでわからない方が悪役かのように。読者に交わすのはキャッチボールであって欲しいのに、そこにいるのは、相手をねじ伏せに全力で投げ込んでくるメジャーリーガーだ。グローブを置いてバットを持てと英語で流暢に喋ってくる。

どうしてここに立たされたんだ。そこで頭を回すような時間の余裕は与えてくれない。

美学のように打席に立つ回数を増やしてチャンスを狙えという言葉は一人歩きしている。打席数をで失敗を仕方ないとなかったことにするのも違うような気がするが、不条理だと証明するにはあまりにも時間がもったいない。

なんでこんなわからないことに溢れている世の中を一丁前に渡り歩こうとしているんだろう。知らないことを知っていることは無知の知とは言う。無限に広がる知識範囲に追いつける日はまだきていない。おそらく私が生きているうちには見ることができない。

たまに、自己嫌悪とは全く違う方向からの悩みによって、消えてしまいたくなることがある。
知らない、知りきれない。だからこそ死にきれない。
知識欲も深くないのに何を偉そうに。俯瞰で見ている自分は相変わらず冷たい。
根本から心から躍るものと出合えていないからなのか、感情の浮き沈みは、悪い意味でも良い意味でも治まってきてしまっている。

これからどうしようか。何をしていこうか。相談相手は決まって俯瞰の自分である。

明日何かいいことないかな。



自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。