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熱帯夜


激しい金切り声に目を覚ますと、辺りは一面の熱帯夜だった。

ひどく蒸し暑い夜だ。身体中が汗ばんでいた。襲ってきた重い頭痛に舌打ちして辺りを見わたすと、錆びた扇風機が唸りを上げて熱波を運んでいた。殺風景な天井をぼんやり見つめたが、頭では何も考えられない。現実世界がうまく認識できない。テーブルのタバコに手を伸ばすと、ガラスの小瓶が転がった。何かのクスリの瓶だ。見覚えはないが、そんな気がした。

手にとってぼんやりと眺めてみる。「フルニトラゼパム*」、褐色の小瓶に貼られたラベルはそう読めた。ひどい頭痛で相変わらず頭が回らない。思考が停止したまま脳は眩暈を帯び、いつしかまた眠りに落ちていた。

短い眠りから目覚めると、辺りは相変わらずの蒸し暑さをまとっていた。したたるような汗を手で拭ってみたが、止めどなく溢れてやがて詮無い事だと諦めた。

ふと隣に目を向けた。女が寝ている。誰だ?脳が動かない。思考は頭痛に遮られ、熱にのぼせたようだ。大きく深く息を吐くと、ぼんやりと霞んでいた意識がゆっくりと脳内に帰ってくるようだった。

戻って来た記憶は不思議な像をみせた。
髪の薄い嫌味な上司が営業成績がどうだと繰り返して歩き回るのを、起立したままでぼんやりと眺めている。後ろのデスクでは要領が良いだけの同期が、馴染みの女子社員と一緒にこの下らない寸劇を楽しんでいる。
不快だ。僕の力では抗うこともかなわない、理不尽極まりない時の流れ。苛つきながら、心の中で闇が首をもたげ大きくなっていた。

一つため息をついた。混乱から覚めかけた意識にあったのは、変えられない現実と満たされない思い、それだけだった。タバコに火をつけた。

隣の女に目をやった。寝ているようだ。顔に見覚えがあった。
最近知り合った女だ。最初の頃は良かったが、いつしか顔を合わせれば激しい口論ばかりだった。気づいた頃には、愛とか恋とかそういう類の気持ちをどこかに置き忘れていた。怒りも憎しみも、いつしか何も感じなくなっていた。孤独や寂しさよりも虚無感が頭上を覆っていた。ため息をつくと白い吐息が熱の中に溶けていった。

女の背中に、何かある。シーツの線が背の中ほどで不自然に隆起した形を描いていた。嫌な予感に背筋が凍り付いた。ゆっくりとシーツをかえしてみる。背中に果物ナイフが突き刺さっていて、身体の下のシーツには赤い血だまりができていた。
 
記憶の波が激しく脳を襲った。夕方家に帰ると、ここ数日は毎日この女に激しく責められていた。精神的に不安定で金だの時間だの何の話なのかも理解できなかったが、すがるように返して欲しいと泣き叫んでいた。最近はろくにも寝られず、ネットで睡眠剤を買った。飲めば意識が薄れて酔ったような気分だった。居心地の悪い現実から解放してくれる魔法のように感じられた。 

昨夜は朦朧とした意識の中で、急に激しい増悪が押し寄せたんだ。何の怒りなのかも覚えていない。ただただ目の前の現実には嫌気が差した。そしてナイフを持ったのだ。そして安心して眠りについたんだ。

記憶が戻ると、開放された気分になった。エアコンの壊れた熱帯夜はきついが、不思議と達成感や安心感に近い心地良さがあった。

夜明けまでは自由だ。天井を見つめ、この蒸せるような部屋が愛おしくすら感じられた。

それにしてもあの叫び声は本物だったのだろうか。薄れいく意識の中、それだけが気がかりだった。

フルニトラゼパム*:ベンゾジアゼピン系の強力な睡眠導入剤

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