複数人でのワイワイに馴染めない理由~難聴の私から見た世界
コミュニケーション方法に筆談も手話がない状態。さらに、一部マスクしている人がいた。手話ができる人は2人いるが、酔っ払っているのと子どもと遊んでいたので意味なし!
先日、夫の実家に行った時にこのような展開になり、家に帰ったあと我慢ならなくなりやるせない思いを夫にぶつけたところ、
夫「そんな実家もよくしてくれているのにさ・・」というコメントにさらに、ドッカーンとなった。
だが、はじめて他人に怒りをぶちまけられたと思う。夫でないと「仕方ないよね~あはは。」ですますところだが、なぜか怒れた。今回はそのことに感慨深く思うのと同時に、大事なことなので文にしたいと思った。 ※夫には〇〇年間のやるせない想いをぶつけてしまったかもしれない(表向きは夫実家でのできごとの不満をぶつけたのだが、その言葉の重みは積年の思いが詰まっているのかもなので)。
それを受け止めてくれた夫には感謝すると共に、問題は解決していないけど、備忘録として記載したものになる。今後の対策として前向きに書き留めておきたい。
次第に聞き返すことに疲れていく
みんなはこのような状況になったら、どうするだろうか?私の場合は難聴なので、文字がゆがんでいるように聞こえるのだ。そのような状況で補聴器は音を拾う。なにやら楽し気な音が聞こえており、時々、「ドッ!」と突然降ってきたように私以外の皆が笑うシーンがあっても、内容が分からない。
私は、口の形や補聴器が拾った単語で推測しながら話しの内容を理解していくのだが、全く通用しない時もある。
私が聞こえる人と複数人で話す時に、よく使う言葉がある。「何?」という言葉だ。図の、人差し指で振って「何?」っていう手話付きで。首を傾げたり、分からない、っていう身振りも加えて。手話や筆談がない状態だと、口話だけでは、この繰り返しになる。「今、なんの話していたの?」って。
口話で伝えるにも限界があるし、私の存在(「ついていくのに必死な思いをしていること。」)が見た目では分かりづらいのかもしれない。
外国人と話す時に何度も聞き返すという経験はあると思う。手話で話す時も。ただ、こちらはだんだん言葉を覚えていき、慣れていくので聞き返しも少なくなると思うし、努力すれば解決する問題もある。
けど、聞こえない私が聞き返すのは、努力不足ではないことを理解してくれると嬉しい。いくら言っても、「配慮が無い、いつまでたっても書いてくれない、手話を覚えようとしてくれない人。」と一緒にいると、出口の見えないトンネルにいるようで不安になる時がある。そういう時はその場をそっと離れるのが良いのかもしれないけど、まだうまく切替えができない時があり頑張ってしまう。
聞き返すのに疲れるのはそういうことかもしれない。その場限りだけでなく、尾を引いて残るのでそういうできごとが起こった時は後々整理するのに時間がかかる。
もし、みんなの周りで同じように聞こえない人が「反応が無い、薄い。」時や「何?何?」と言っている時は、自分の意識やその環境を振り返ってくれるだけで本当に嬉しい。このnoteをここまで見てくれる人は興味関心がある人か、想像力のある人だと思う。気づいてくれた人と私は繋がれれば良いと思う。残念なことだけど、なかなか理解してもらえない人もいる。
一方が頑張って成り立っている関係は、私にとってつらいだけなので、距離を置いてみることから(頑張って)始めてみようと思う。
家族や友人の一部が通訳を担わないといけないのか
最近(この文を書くのに時間がかかってしまったので大分前かも)、「聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会」のYoutubeライブ配信を見た。
SODAとは・・キコエナイきょうだいをもつ”キコエルきょうだい=兄弟姉妹”のことです。(参考:キコエナイきょうだいをもつ
SODAソーダの会HP https://soda-siblings.jimdofree.com/)
1週間、毎日配信されていたが、SODAの話だけでなくCODA(聞こえない親をもつ聞こえる子ども)や当事者のお話も聞ける。 全て見ることはできていないけど、この記事と関係して印象に残ったのは、「杉山たたみさん(聞こえない妹がいる聞こえる姉)のお話である。たたみさんは、子どもの時から聞こえない妹のために、コミュニケーションの仲介をしてきただけでなく、周囲の声や母からの期待に、ストレスやプレッシャーを感じてきたそうだ。
今もありがたいことに、公開されているのでぜひに。
こちらの記事のたたみさんの、親の介護や看取りの経験をふまえた上での、大人になってからの家族との関係についてのアドバイス や 今の思いも、とても参考になる。こんなに考えることがあるのか・・ふ、不安になってしまう・・けど、知れて良かった。
夫は手話が少しできる。だが、夫も参加する立場でもあるし、少し手話ができる程度では、大多数の会話を通訳することはできない。さらに、その場が聞こえない世界にとって優しくない場だとどうだろうか。夫も苦しくなってしまうかもしれないし、今回のように喧嘩になるかもしれない。
私は夫に通訳してもらう立場として結婚したのではない。一人の夫から独立した人間である。「手話ができる人、理解のある人がいるから」、自分はコミュニケーション方法を変えない、というのは一部の人を苦しめることになると思う。手話ができなくても、聞こえない人の顔を見て早口からゆっくり話してくれるだけでも嬉しい。
伝えたいことは間接より、直接の方が気持ちが伝わると思う。
聞こえない世界でも違和感を感じる時がある~難聴者が手話を覚えてもいいの?~
それだと、聞こえない世界に入ると天国だろう、と思うかもしれない。ただ聞こえない世界でも、手話を第一言語とする人の世界ではなかなかついていけない。私の頭は日本語なので、文法の違う手話が読み取れないのだ。それは努力すれば読み取れるので構わない。
私にとっての問題は、思いこみかもしれないけど、手話を第一言語とする人の中に私が入ると、温かく迎えられるかといえばそうではない。なにか壁を感じるのだ。実際に人工内耳と補聴器が手放せない私を見て、ろう者に「あなたは聴者でしょ?」と言われたこともある。視線が優しくないと感じる時がある。
私はそのたびに、手話を第一言語とするろう者の気持ちを考えてみる。「はっきり言われて傷ついたけど、ろう者は遠回しに言うのではなくストレートに手話で言ってくれるから、批判ではなく、純粋な意見であり、そういうことだよね。」と思う。でも、やはり文化や言語の違いで聞こえないことで不便に感じていることを、共有できない雰囲気がある時は寂しさを感じる。
私は難聴者(聴者と同じ日本語をベースにする聴覚障害者←と思っているのだが細かく知りたい人はネットで調べてもらえたらと思う。)であるし、人工内耳や補聴器を手放せないが、それは聞こえない世界に入ることを拒否している訳ではない。むしろ受け入れている。
だが、小さい時から聞こえる世界で補聴器を活用してきた私は、補聴器に頼らないと聞こえる人との会話ができないという考えになっている。 もう恐怖になっている。それで音声を聞く話すことで頑張ってしまうので、聞こえる人にはあまり手話の必要性を感じてもらえないという悩みがある。
そんな訳で(むりやりかもだけど)私は手話を今も少しずつ勉強している。ろう者でも難聴者でも聞こえる人でも、そういうことを話せる人がもっといれば、相談することもできるし、安心することができると思うので、今後も無理のない程度にコミュニティに参加してみたい。
ありのままの自分で安心できる居場所を家庭以外にも模索中だ。
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