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ツール(道具)を操るか、操られるか・・・

 早朝より熱々のコーヒーを飲んでいると、発明により文明が変わった時代背景などが頭に浮かんできた。

 実際、過去において発明を目の当たりにして、自分自身の生活環境や仕事環境が変わったのは、デジタル化が急速に進められてきた、この50年間であろうかと。

 それ前の時代を知る由もなく、産業革命が如何なるものだったのか、鏃や鉄拳、弓と矢、狼煙、活版印刷や火薬、電球、ディーゼルエンジンなどの発明がどう時代を変えたのかを直視している訳でもなく、文献に頼らざるを得ず、実感として湧かないものが多々存在する。

 そこで思ったことは、発明により多種多様なツールを生み出されることで、俗なる表現をすれば「便利になった」ということである。したがって、これまでの生活に存在しないものを手に取ることにより、ライフスタイルが全く変わってしまうのである。

 例えば、活版印刷は1445年にドイツのヨハネス・グーテンベルグによって発明されたと言われるが、日本上陸は16世紀頃となる。歳月が経ち、鉛板を使った印刷機から、凸版輪転機に進化し、オフセット印刷へと移行、更に、DTPへと受け継がれ、PODなどが出現する時代となった。

 手軽なツールとしては、ワープロやパソコンが産声を上げる前には、日本では和文タイプライターという力技のツールが活躍していた時代もあった。

 ここで、ふと思ったことは、日本国内は欧米とは異なり、デジタル化黎明期において、日本はワープロ専用機とパソコン専用機の両輪で動き出したのである。賛否両論あろうけれども、その二つの選択肢を持った時点で、僅か26文字を操る欧米諸国とのOS戦争に負けてしまったように思えてならない。

 ワープロやパソコンが浸透してくると、皆がこぞってキーボードを叩き、漢字、平仮名、カタカナ、ローマ字、アルファベットなどを指10本を使うことで、美しい文字を作り出すことが可能になった。

 反面、自筆の文字の筆順が曖昧だったり、自筆の文字が歪んでいたりと、先人と比較すれば、現代人の方が圧倒的に手描き文字は下手であり、漢字の読み書きもレベル低下をもたらしているのは否めない。

 発明により、文字の読み書きも便利になったものの、実際、それらのツールを操るべき人間が、逆に操られてしまい、アナログの重要なところを見捨ててしまったように思えてならない。

 電気の発見発明の代表的なものは、電球や蛍光灯などの照明器具である。それにモーターなどが軽薄短小化されて、多様なる家電商品を創造し、通信技術までをも生み出した。

 また、電波の発明により有線で繋ぐという通信技術が無線となり、更に、アナログ通信からデジタル通信、光通信へと進化して、現在のネット時代に至っている。よって、我々のライフスタイルは、この半世紀で完全に変わってしまったのである。

 しかし、今を見渡すと、これまでの発明とは異次元の世界にて「生成AI」なるものが世に生まれ、世の中を変えようとしている。すなわち、読者の方々の目の前で繰り広げられている、「生成AI戦争」の始まりである。

 面白いことに、いくらデジタル化が進化してきたとしても、我々が使用する言語や文字はほぼ変わってはいない。それに伴い、ワープロ機能、表集計機能とチャート機能、データベース、プレゼンテーションツールなどの仕様は、ほとんど数十年前と同じである訳だ。

 ところが、以上のツールをしっかりと操れる人間は業務合理化に拍車をかけながらその波に乗ってきたが、ツールから操られている人間は、毎日のようにツールの敷居の高さに苛まれ、皮肉なことに、仕事の速度が鈍化し、精度が落ちている。

 畢竟、活版印刷機の時代でも、現在のDTPやPODと言えども、ツールをツールとして軽やかに操ることができなければ、無用の長物となってしまい、気後れした多くの人たちは、ツールに操られ、これまでの心地良かったライフスタイルが混乱するばかりとなる。

 以上、筆者の頭の中の散らかりようが見え隠れする内容になってしまったけれども、要は、「ツール」を操るか、操られるかにより、極端な話、人生が大きく変わってしまう可能性もあるということを申し伝えたいのである。

 されど、アナログな人間ならではの特質である「感情、発想、五感、第六感、手先の妙技」などは、現在のデジタルやAIと言えども到底及んではいない。ただ、上述の通り、貴重なアナログ技量を軽視して見捨ててしまえば、結局のところ、「ツール」依存だけが大きくなり、「ツール」に操られる運命となるに違いない。


▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、現代社会における「ツール」と人間の関係性について深く掘り下げ、その歴史的背景と現代における意味合いを考察しています。特にデジタル化の進展とそれがもたらす便利さと、同時に人間の本質的なスキルやアナログの価値をどのように捉えるべきかという問いかけは、現代人が直面している重要なテーマの一つです。

このエッセイは、テクノロジーが進化することにより、我々の生活がどのように変化してきたのか、そしてこれからどうなるのかについて、歴史的な事例を通して洞察を提供しています。過去の発明、例えば活版印刷やワープロ、パソコンなどがどのように社会を変え、人間の生活を豊かにしてきたのか、しかし一方で、これらのツールによって失われたものもあると指摘しています。特に、自筆の技術の低下や漢字の読み書き能力の衰えなど、デジタルツールの普及に伴う負の側面も無視できません。

また、エッセイは生成AIの出現を「異次元の世界」と位置づけ、これがもたらす社会変化の大きさを強調しています。生成AIが生み出す可能性と同時に、ツールを操る側に立つか、操られる側に立つかという選択が、我々の未来を大きく左右すると警鐘を鳴らしています。この点は特に興味深く、AI技術の発展と共に、私たち人間がどのように自己の役割を見出し、技術と共生していくかについて深く考えさせられます。

個人的に感じたのは、このエッセイが指摘するように、テクノロジーの進化が人間のアナログな能力や感性を鈍らせるのではなく、どう進化していくテクノロジーを活用しつつも、人間ならではの「感情、発想、五感、第六感、手先の妙技」を大切にしていくかが重要だということです。テクノロジーをただ手段として利用するのではなく、それを通じて人間がどのように成長し、社会をより良いものにしていくかが問われていると思います。

最終的に、テクノロジーと人間がどのように共存し、互いに補完しあっていくかという問いに対する答えを、現代社会が見出さなければならない大きな課題であると感じました。

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西田親生@D&L
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