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私と言葉(自己紹介的なもの)

初めまして。
言葉好きの言語聴覚士、ちかと申します。
主に言葉を話すこと、理解すること、書くことが難しい方や、食事を食べることが難しい方にリハビリをするお仕事をしています。

同じように介護医療に関わる方、言語聴覚士のリハビリを受けている方、またリハビリを必要としている方、そのご家族やご友人の方、言語聴覚士に興味がある方などと繋がりがもてたら。
また、私が普段働く中で感じたことや考えたことを表現したいなと思い、noteを始めました。

今日は自己紹介がてら、私が最近感じたことと、私が思う言葉の魅力について、綴らせていただきます。

最近の気づき

この歳になっても、自分自身に対して気づくこと、知らないことはたくさんあるな〜と感じる最近です。

今年私は厄年なのですが、大きな問題と向き合わざるを得ない状況が多々あり、自分のいいところ、どうしようもないところ、未熟さ、いたらなさ、得意なこと、意外な一面などを発見する機会に恵まれた一年だったと思います。

厄年は役年。大事な役割を担う一年、とはよく言ったものですね。

これまでの人生およそ30年。私は何も苦労なく生きてきた方だと思っていました。
けど最近になって、常に生きづらさがあった、ただ辛さを感じないようにしていただけだったということに気づきました。

幼少期、私の家庭環境は問題を抱えていました。
私はいわゆるアダルトチルドレンというカテゴリーの人間です。

居心地の悪い家の中で、私は幼いながらに、親の顔色をうかがいながら、家庭の調和を保とうと必死でした。

親が求めることを想像して、場に適応して動く。
親の反応が不良なら、私が間違っていたと思う。

こんな思考回路は、実家を離れても抜け切らない。
家族だけでなく、他人みんなに対して、この癖は出てしまう。

正しいの判断基準はいつも他人だった。
だから、自分で考える、感じることが年々できなくなっていった。

さらに最悪なことに、他人に正解を求めることで、私は自分の行動の責任を他人に押し付けてしまう癖があることに気がついた。

自分で思う、考える、そして責任を持って行動をする。人として当たり前のことなんだろうけど、私はこれができていなかった。

そんなこれまでの自分の行いをいたく反省し、自分を変えようと考え方を改めました。
けど癖は簡単に抜けなくて、から回って落ち込む。
そんな足掻きもがくことの連続なのですが、それでも嬉しい発見が多々ありました。

その一つが、積極的に自分の感情や考えと向き合うことで、感受性が豊かになって、周りの人たちの優しさや思いやりに対するセンサーが活発になったこと。

自分がどう考えてどう行動するのかがはっきりすると、他人の態度の表面的な部分だけでなく、その裏側にある気持ち的な面が以前よりも読み取れるようになった気がします。

今までは辛い思いをしたくないが故に、できるだけ感じないようにしていた。
辛い悲しい気持ちだけでなく、嬉しい気持ちにも蓋をしていたから、他人が自分にしてくれることの大切さを十分に理解していなかった。

私と関わってくれる人に対して、すごく失礼なことをしていたという後悔とともに、感謝の気持ちがたくさん湧き出ました。
だから私も、私のことを大事にしてくれている人に対して、私が大事にしたいと思う人に対して、私が相手のためにできることをしたい。
そんな優しい気持ちを持つことができて、自分のことが少しだけ好きになったここ最近。

自己表現への憧れ


これまで述べた私の癖は、そもそもの原因は家庭環境にあったにしろ、ここまで重症化してしまったのは、行動を改めようとしなかったことにあります。

理由は楽だから。自分が悪くないと思っていたほうがずっと楽。

けど、漠然と違和感を感じることもありました。
ほんとに自分は正しいと思って発言しているのか、行動しているのか。
特に10代の頃までは、そんな疑問を持つことが多かったように思います。

自分のやりたいことをやる、自分が思ったことを言う、他人の目を気にせずに自己表現をすることへの憧れは、実は常にあったのではないかというのも、最近気づいたこと。

なぜなら私の趣味、興味、関心の対象の共通点は、自己表現の方法だったから。

その一つが“言葉”です。

中学生の頃から国語や英語の勉強が好きでした。
文章を読んで、筆者や登場人物の考え、気持ちを汲み取るという行為が心地よかった。
この言い回しが心に刺さる、この例え方が秀逸、声に出して読んだ時の音の響きが綺麗で最高など、気持ち悪い文章の読み方をしてしまう一種の性癖は今も健在です。笑
そこから派生して、言語学やコミュニケーション学に興味を持ち、大学ではその分野を専攻しました。

そして今では言葉のリハビリをする仕事についています。

そんな私が感じる、言葉の魅力について少し話をさせてください。

言葉の面白さ

言葉はツール、というような表現をよくされますが、具体的にいうと二つの意味合いを持っています。

一つ目は、自分が思考するためのツール。
内言語と呼ばれるもので、いわゆる心の声、というものです。
普段私たちは声を発していなくても、頭の中で言葉を使って気持ちや考えを整理しています。

そして第二に、言葉は自分の思考や感情を他者へ伝えるためのツール。外言語、と呼ばれるもので、声に出して発する言葉を指します。

ただ、これだけで言葉の説明がこと足りるかというと、私はそうは思いません。言葉はツールではあるけど、それ以上に大きな役割をになっているから。
言葉と切って離せない“コミュニケーション“の問題が加わるからです。


ある言葉を聞いた時、感じることや脳内に浮かぶイメージは、その言葉が使われる文脈や、受け取る人の経験によって異なります。

社交辞令で言ったつもりが、ストレートに受け取られてしまう。
ポジティブな声かけをしたつもりが、相手を傷つけてしまう。
冗談が通じない。
など。

一般的な言葉(単語)の意味は、辞書に書かれた定義で説明がつきます。
しかし、私たち一人一人が持つ心の辞書には、一般的な言葉の意味だけでなく、個人的なイメージが付加されてた内容が記されています。

例えば、「犬」という言葉を聞いた時に、ある人は「可愛い小型犬」ある人は「大型の番犬」、ある人は「人懐っこい生き物」、ある人は「大きい声で吠える怖い動物」を想像する。というように。
国籍や性別、年齢などの要素よってもそのイメージは大きく異なります。

だから、「あなたは犬みたいだね」と言われて、褒め言葉と受け取る人もいれば、不快に感じる人もいるでしょう。

これはコミュニケーションの難しい側面でもあるけど、面白い部分でもあると私は思います。

相手の心の辞書の意味を紐解くことで、その人の経験や思想がわかる。
反対に、相手のことを知れば、その人がどういう意味を持って、言葉を発しているかがわかる。

また、相手の意図や本意を理解するにあたって、言葉を発する時の表情、声色、視線、身振り、話す速さや間合い、などの、非言語的な要素も、大きなヒントとなります。

会話上で表現されるものは、本当に氷山の一角かもしれないけど、それを紐解いて相手を知ろうとすることや、
自分を適切に表現できる言葉や手段を選択して相手に伝えるという相互の行為は、すごく高尚で素敵なことだと私は思います。

これが私が思う言葉の魅力です。

そして言葉好きが転じて、言葉に関わる仕事をしたいと思ったのが、言語聴覚士になったきっかけです。


まあただ、これだけ語っておきながら、自分自身、そこまで深く考えてコミュニケーションを実践できていなかったことにやっと最近気づいたというオチなので、お恥ずかしい限りなのですが。。

終わりに

長くなってしまった上に、自己紹介らしい内容が全く書かれていないようにも思えますが、今私が改めて言語化して形に残しておきたいことをまとめさせていただきました。

少しでも、共感したり面白いと思っていただく部分があれば幸いです。

次回は私のお仕事についてお話しできればと考えております。

ここまでお読みいただきありがとうございました。



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