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【エッセイ】風の匂い

末の息子が中学2年になった日の朝、台所でパンを焼いていた私は部屋から出てきた息子の顔を見て驚いた。
眠そうな声で、「おはよう」と言う息子の顔をもう一度見る。
左の瞼が殴られたボクサーのように赤く腫れ、垂れ下がっているではないか。
「目、痛そうやな」
息子に声をかけながら、両掌で顔を挟み親指で眉毛を上げてみた。まつ毛の生え際に大きく熟れたニキビのようなものもらいができている。指の背で触ると熱かった。
「えらいこっちゃ、病院行こ」
私は学校に休む連絡を入れ、息子と自転車で眼科に向かった。
春の柔らかい空気がいつもと変わらない日常の風景を包んでいる。
病院の入り口は開け放たれ、待合室に入りきらないお年寄りが外でも待っていた。
その割に診察はテンポよく進んでいるようで、まもなく息子の名前が呼ばれた。診察室から看護師が出てきて、息子を連れていく。微かに消毒液の匂いがした。
いつの間にか、お年寄りは半分くらいになっていて、私は待合室の空いている椅子に腰を下ろした。小さなポーチを肩から下げた看護師が、待合室のお年寄り一人一人に声をかけながら、ポーチから脱脂綿と目薬を取り出しては手際よく差して回る。
診察室のドアが開き、息子と入れ替わりに私が呼ばれた。お化け屋敷みたいな暗い部屋の奥で、先生が大きな顕微鏡みたいなものを覗いている。私は看護師の指さす椅子に座った。
先生が私の方に体を向け、「お母さん、息子さんに悩み事はありませんか」と尋ねた。ものもらいは、ストレスが原因でできることもあるらしい。私は「特に変化は感じないけど、13歳の男の子なら何かしら悩みやストレスはあると思います」と答えた。
診察の後、息子を連れファミリーレストランに行くことにした。案内されたテーブルで、メニューを広げる息子に声をかける。
「好きなもの頼んでいいよ」
店内は、主婦のグループでにぎわっていた。
私は、ハンバーグをほおばる息子に「食べたら散歩しよう」と言ってみた。今度は緑色のソーダ水をストローで吸いながら、「うん、行こ」と息子が答えた。
店を出て天王寺公園に向かう。ここから15分くらいのところにある。
駐輪場に自転車を止め、緑の匂いのする公園を歩く。
道の先に丘みたいな低い山が現れた。
桜の花びらが風に舞う坂道を、息子と肩を並べて歩く。道の両側に、薄緑色の葉をつけた木が生い茂っている。
丘のような山のてっぺんは少しひんやりしていて、向こう側に朱色の橋が架かった池が見えた。
私たちは山を下りて橋を歩いた。半分くらいの所で立ち止まり、欄干から下を見おろしてみる。抹茶あずきの羊羹みたいな池が、山の景色を映している。
あずきみたいな黒い影は、亀の甲羅だった。頭を出して泳ぐものや、手足をばたつかせるもの、大きな甲羅にしがみついているものなど、いろんな亀がいた。
「ちーちゃん」
息子がいつものように私を呼ぶ。
「風の匂い、知ってる?」
私は、隣に立つ息子を見た。
欄干から身をのりだす横顔を、春風が通り抜けた。
まあるい輪郭には、まだあどけなさが残っている。左目の腫れが痛々しい。
「どんな匂い?」
「春の匂い」
息子が答えた。
私は、風を胸いっぱいに吸い込み次の言葉を待った。
息子は大きな息を吐いた。
「俺な」
目は亀を追っている。
「学校でいじめられてるねん。毎日5、6人の奴から弄られてるねん」
リーダー格の子にやめてほしいと言っても、「お前が悪い」とやめないそうだ。周りの子は、最初は止めてくれたがしだいに何もしてくれなくなった。生徒の少ない学校で、2年になってもクラス替えは無い。
そういえば、春休みに息子が遊びに出ることは一度も無かった。
私は息子の肩を抱いた。
「学校、行かんでええよ」
「うん」
「苦しい気持ち、しまい込んどくことない」
私は、「心配いらん」と肩を抱く手に力を入れた。
優しい春風が息子の横顔をふわりと撫でた。
春を感じる匂いがした。

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