Chihiro

フルタイムワーカーの傍ら、ヨガを学び、RYT200を取得。ヨガを日常に、をテーマに徒然…

Chihiro

フルタイムワーカーの傍ら、ヨガを学び、RYT200を取得。ヨガを日常に、をテーマに徒然なる文章を投稿しています。

マガジン

  • ヨガ哲学ノート

    「暮らしのスコレ」でヨガ哲学対談をさせていただいています。 対談で話したこと、話していないこと、「暮らしのスコレ」から得たインスピレーションで綴る小さなエッセイ。 https://olto.jp/pages/schole

最近の記事

  • 固定された記事

ヨガクラスのご案内

この記事はマガジンを購入した人だけが読めます

    • そしてその身体に魂が包まれている

      アヒムサー非暴力。  暴力を振るわない、という戒めは、他人を傷つけてはいけない、という以上に、自分自身に暴力を向けていないかという問いでもある。 例えば、家がいつも散らっている自分は、片付けもできないダメな人間だ、と自分を責めること。忙しくて思うようにことが進まず、家族に八つ当たりしてしまったことへの自己嫌悪。 アヒムサは、こういったことも禁じている。 暴力とはなんだろう。意図的でなくても私たちはたくさんの暴力を振りまいている気がする。通りすがりにちょっと体がぶつかったと

      • 映画『雪山の絆』

        友人のために命を捧げることほど偉大な愛はないー。 ウルグアイのラグビー選手たちを載せたチャーター機の墜落事故で、45名のうち29名の生存者がアンデス山脈の人里離れた雪山で遭難したという実話に基づいた映画。 音楽は抑えめで、セリフも少なく、見渡す限りの厳然とした雪山と、空にはどこまでも透明な光。 極寒の世界で、食糧も防寒具も何も持たず、あるのは、傷ついた肉体と命とチームメイトたち。 事故が発生するまでの描写は短い。 騒々しく「チリへ遠征に行ける」と盛り上がっている若者

        • 自分の言葉と他人の言葉

          私たちは、言葉を紡いで生きている。 でもその言葉は、自分の言葉だろうか。 言葉は、思考のアウトプットでもある。 言葉になり、文字になり、視覚化されたとき、私たちはそれを受け取ることができる。 その時その言葉に埋め込まれた種を受け取るということだ。 あなたはこうだよね、という何気ない一言に傷ついたことはないだろうか。 同じことを言われたくないという気持ちが、行動を変えさせる。 逆に、言われて嬉しかったことに心を縛られていないだろうか。 同じことを言われたくて、その言葉を引き

        • 固定された記事

        ヨガクラスのご案内

        マガジン限定

        マガジン

        • ヨガ哲学ノート
          9本
          ¥100

        記事

          太陽礼拝108回

          毎年、年末に差し掛かると、色々なところで開催されるヨガの年末イベント。 太陽礼拝は、立位の基本が詰まった、12のアーサナを一呼吸一動作で連続して行うシークエンスだ。 ヨガの練習を始めて3年くらいだった頃、今は亡き、中島正明先生にアーサナをはじめてアジャストして頂いたとき、 毎朝10回、いや5回でいい、太陽礼拝を練習するといいよ。運命が変わるから。 と言われた。 その言葉を丸ごと信じたわけではないけれど、スッキリするよ、とか身体が変わるよ、ではなく、運命がかわる、というそ

          太陽礼拝108回

          銀色夏生『銀色ナイフ』

          銀色夏生さんの本で、はじめて読んだ本がこの本。 当時、離婚して実家に帰ってきたばかりで、何もしていなくて、することがないと考えたくないことばかりが頭に浮かんできて、頭の中で思考が暴走して手がつけられない、そんな状態だった。 それで、長編の推理小説を読み漁って、ついに読むものが無くなり、本屋に駆け込んだのだ。 意外とそういう人多いのでは、と思うが、私は長らく、銀色夏生読まず嫌いだった。 表面的なきれいなところだけをすくいあげて、浅はかな癒されたい人たちに支持されている人と決め

          銀色夏生『銀色ナイフ』

          よしもとばなな『はーばーらいと』

          限りなく死に近いところにいながら、生きることへの誠実さを失わないでいる魂の強さと、その在り方を見つめるまなざし。 ひばりとつばさは港のある街で、中学校を卒業するまで一緒に育った。 つばさに向けられる、ひばりの強烈な恋。 その熱量を持て余すつばさ。 そうだ、2人とも子どもだった。 15歳で両親を見放すことはできないだろう。 中学校を卒業すると同時に、家を捨てて、コミュニティに入ってしまった両親を、ひばりは追いかけた。 これは卒業式でのひばりのつばさへの言葉。 そして、「

          よしもとばなな『はーばーらいと』

          傷口と塩

          傷口に塩を塗ると痛い。 でも、傷も何もないときは、塩を塗っても何も感じない。もちろん、痛みもない。 私たちはちょっとしたことで傷つき、悲しんだり怒ったりして、その度に周りを見ては、原因を探す。 でも原因は、いつも自分の中にある。 自分の中の価値観が、外からの刺激をジャッジして、攻撃と見なせば、怒りや悲しみに転換される。 それと同じで、自分の価値観でついた傷、そこに自分で塩を塗るから痛い。 これは、アーサナの練習でもよく起こることだ。 例えば、柔軟性が高いことがいいこ

          傷口と塩

          呼吸とアライメントがもたらすもの

          呼吸は、無意識の運動のひとつ。 ただ生きるためにする呼吸は、コントロールを必要としない、私たちの中にある生命システムだ。 呼吸にきづき、意識を寄せる。 それだけで、心が静まる。 明るい日差しのしたから、ふと、薄暗い礼拝堂の中に入ったように。 ひんやりとした静寂。 そこから、徐々に呼吸のコントロールを始める。 深く長く。 その呼吸の流れに身を委ねるようにして、身体を少しずつ動かし始める。 足の指先から手の指先まで、細胞ひとつひとつに意識を広げていく。 身体の中で起こる微細な変化

          呼吸とアライメントがもたらすもの

          内なる声に耳をすます

          トマスエジソンの言葉に、 常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことだ。 というのがある。 そのくらい、私たちは、外から入ってくる情報の影響を受けている。 情報は、五感を通して私たちの脳に届く。 そして脳内で咀嚼され、心に棲みついていく。 心に棲みついた情報は、常識という殻を纏い、世界の一部を構成する。 そうなると、自分で覆すのは至難の技だ。 心は手に触れることができない。 心の状態に気づくには、それなりのテクニックも必要になる。 でも、身体は触れること

          内なる声に耳をすます

          内観

          目を閉じて、呼吸に意識をおく。 それだけで、内側に静けさが訪れる。 息を吸い、息を吐く。 それを繰り返す。 そのうちに、マインドが蠢きだす。 腰が丸まっている、肩が内巻きだ、顎が上がっている、頭が前に落ちている、呼吸が浅い、吐き切れていない… リラックスして座り、呼吸するだけ。 それだけなのに、こんなにも自分を攻撃している。 私たちは、ただそこに在る、ということになかなか価値を見出せないのかも知れない。 何かをしたから、はじめて対価として、存在価値を与えられる。 ただ

          アーサナの練習

          アーサナの練習では、「アヒムサ」を大切に、と言う。 大抵は、ケガをしないように、という文脈で使われる。 深く入りたくて、完成させたくて、もう何のための練習なのかもどうでもよくて、ただただ、「できない」から逃れたくて。 そういう練習の仕方をすると、身体を痛める原因になりやすい。 だから、できない自分を責めてはいけない。ポーズの完成を目指すのではなく、心地の良いところを探す。 内観する。 今、そうであるという状態そのものを見つめる。 多分、それがアーサナの練習だ。 ポーズじゃな

          アーサナの練習