見出し画像

傷口と塩

傷口に塩を塗ると痛い。
でも、傷も何もないときは、塩を塗っても何も感じない。もちろん、痛みもない。

私たちはちょっとしたことで傷つき、悲しんだり怒ったりして、その度に周りを見ては、原因を探す。

でも原因は、いつも自分の中にある。

自分の中の価値観が、外からの刺激をジャッジして、攻撃と見なせば、怒りや悲しみに転換される。

それと同じで、自分の価値観でついた傷、そこに自分で塩を塗るから痛い。

これは、アーサナの練習でもよく起こることだ。
例えば、柔軟性が高いことがいいことだと、誰が決めたのか。
身体が硬いことをダメだと感じる心は、自分で作り出したものだ。
そう感じているから、前屈で手が届かない自分の硬さを責めてしまう。そして自分の「傷口」にしてしまう。
それなら前屈なんてしなくていい。
身体が硬い自分に塩を塗るのではなく、身体の硬さに気づき、受け入れて、そこからどうしたら自分が心地よくいられるかを探すことがヨガだ。
その結果として、柔軟性があり得るということ。
プロセスを飛ばして、柔軟性だけを求めても、アヒムサにはならない。

アヒムサ、非暴力の難しさはここにある。

私は、流産したとき、必死で自分を責めまいとした。
周りの人も皆そう言って労わってくれた。

あなたは、悪くない。

だけど、ある日の夕方、家に向かって1人で歩いていて、夕暮れの空を見上げていたら、そんなはずがない、という強烈な反発が起こった。

私の身体の中で起こったことなのに。
この中でしか生きられない命なのに。
死んでしまった。
私のせいじゃない、訳がない。
理由もなく、こんな悲しいことが起こるはずがない。

悲しみでいっぱいの心が、バリバリ引っ掻くからそれが傷口になって化膿して、私はさらに塩を塗る。
自分を罰しなければいけないと思った。

そう感じる自分をまず受け入れること。
そして、誰も悪くなくても、命は失われるのだという事実を。
アヒムサは、そこから始まる。

私は、どうしたら自分を癒せるのか。
そうすることを自分に許すことが、アヒムサだ。

自分のことばかりにかまけていたある日、夫も自分を責めていることに気づいた。
私が自分を責め続ける限り、夫も自分を責め続ける。

そしてまた、そのことを受け入れる。
そうやって、アヒムサが連鎖することで、優しさや愛というものが、生まれるのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?