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映画『雪山の絆』

友人のために命を捧げることほど偉大な愛はないー。
ウルグアイのラグビー選手たちを載せたチャーター機の墜落事故で、45名のうち29名の生存者がアンデス山脈の人里離れた雪山で遭難したという実話に基づいた映画。
音楽は抑えめで、セリフも少なく、見渡す限りの厳然とした雪山と、空にはどこまでも透明な光。 極寒の世界で、食糧も防寒具も何も持たず、あるのは、傷ついた肉体と命とチームメイトたち。

事故が発生するまでの描写は短い。
騒々しく「チリへ遠征に行ける」と盛り上がっている若者たち、車の音やデモ、ウルグアイの街は音が溢れている。
機体が雪山に突っ込む直前、音が消え、主人公の目に太陽が直接差しこみ、ブラックアウトする。 気がつくと破壊された機体と怪我人と、死と、絶望と嘆きが渦巻いている。

でも、全ての音は、どこまでも白い雪山とひたすら透明な 空に吸い込まれ、凄惨な事故現場の阿鼻叫喚よりも自然の沈黙の方が大きい。

結局彼らは、2ヶ月以上も生き延びたが、その過程で、壮絶な飢餓の問題と直面した。
氷点下の世界、そこには生き物の気配がない。
人が生きられる場所ではない。人の居場所ではない。
尿が黒ずみ、靴紐や、自分の体の瘡蓋を食べる者。生きるための選択について、議論が交わされる。しかもそれは、友人であり仲間だ。
そして、「俺が死んだら食べていい。それで生きられる」という言葉で、ついに一人が決断する。
一人、また一人。

ここは俺の天国だ、というセリフがある。
かろうじて残った機体の中で、怪我で身動きが取れない。
彼は、指先でコツンコツン、と壊れた機体に触れる。

ここは俺の天国だ。
俺はお前の神とは別の神を信じる。
俺が信じるのは、ロベルトが俺の怪我を見てくれるとき、彼の頭の中に宿る神だ。
ナンドが歩き続けるとき、彼の足に宿る神だ。
ダニエルが肉を切るとき、彼の手に宿る神だ。
肉を渡すとき、誰の肉かを言わないフィトだ。 だから食べられる。
俺は彼らを信じる。

人肉を食べることに一番抵抗したヌマが、救助が来る直前に死んだとき残した言葉が、 「友人のために命を捧げることほど偉大な愛はない」。

死とは何かについて、ずっと考えてきた。 私は、死とは、細胞が再生を止めることだと考える。
私たちの体を構成する細胞は、3ヶ月で入れ替わるそうだ。 そのサイクルが、終わりを迎えると、肉体は再生しなくなる。
すると、体のさまざまな機能が少しずつ壊れていき、最後に心臓が止まる。
肉体が滅びると、魂(を含めた、手で触れることができない微細な、でもそれがなければ生きられないもの)を繋ぎ止めるものがなくなって、一つの個体を保つことができなくなり、海へ還る。
全ての生命の源へ。

この映画は、極限状態を描いた物語によくある、疑心暗鬼や狂気や裏切りを一切描いていない。
彼らが赤の他人でなく、チームメイトであり、友人だったことを差し引いても、全ての音を吸い込んでしまうような雪山の中で、不思議な明るさがある。
冗談を言いあい、何が食べたいかについて笑顔を交わす。
即興で詩を作り、未来への希望を語る。
だけど、死の恐怖はいつも一緒だ。絶望が静かにそこにある。

そして、16名が生還する。 病院で手当を受け、家族や恋人に再会する。 体についた垢をこすり落とし、伸び切った爪を切る。 髪を切り、ひげを剃る。 清潔なシーツに横たわる。
でも、その眼差しはどこか虚なままだ。
あの眼差しは、光を取り戻しただろうか。

雪山で、他に生き物の気配のない、生よりも死の気配が近い場所で、友人の肉で命を保っていた。
いつしかあの場所には、生と死の境界線が消えていたのかもしれない。

その後の彼らの人生を知らない。
あくまでもこれは映画だ。実際に起こったこととは違う。

ただ、生きるということは、肉体という器を維持するだけでもなく、心が満ち足りているということでもなく、医学的に健康だということでもなく、存在として役割を果たすということを描いていると思った。
理不尽な出来事に、強引に意味を見出すということではない。 例えば視線と視線が出会ったときに静かに微笑むとか、よろめいた体をさっと支える手だとか、自分という肉を友人に差出すということはその延長にあるのではないか。

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