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「心の反応」を無くす思考法①

「心の反応」
イライラ…モヤモヤ…する。
悩みや、怒り、不安や満たされなさ…
頭の中でグルグル考えてしまって、眠れない…

今までこれらについて、
マインドフルネスや瞑想、ヨガや脳科学や認知科学など色々な側面から書いてきた。(つもりw)
ここからのシリーズは、悩みや怒りなどを「心の反応」
(苦)とし、原始仏教・釈迦の思考法が
「心の反応」へどうアプローチにしているのか?
を書いていきたい。
(過去の記事を読んでくださった方は、頭の中のストーリー展開や自分フィルター、雑念などが同義語と思って欲しい)

ヨガなのに…仏教?と思う方もいるかもしれないが、
そもそもヨガはバラモン教の教え・哲学を元に発展してきたもの。
そのバラモン教(ヒンドゥー教)に"異"を唱えた釈迦が仏教を開祖したわけであり、その後時代と共にバラモン教と仏教は、互いに影響しあいながら発展してきた経緯がある。なのでお互い異を唱えながらも、実は両者には類似している点も多くあるのである。その点からもヨガ哲学に触れた事のある方は、類似するところ、または逆に相対するところを見出すことができるだろう。

また宗教と聞くと、怪しい!と思う方もいるかもしれない。しかし原始仏教は、神は○○と言っている!信じましょう!の世界ではない。
そもそも、釈迦は神ではない。むしろ、偶像崇拝をしてはいけないという教えもある。念仏やお経を唱える習慣や儀式的なものは、そもそも無かったという。

釈迦は「心の反応」を細かに分析し、それを体系付け、対処法を分かりやすく説明したのだ。
故に、釈迦は哲学者や心理学者に近い、だからこそ原始仏教の内容を理解することは「心の反応」を無くすための近道なのではないかと感じると共に、ヨガ・瞑想・マインドフルネスにも繋がる内容が詰まっている。

そんな釈迦の思考法はどんなものだったのか?

シリーズ①は、釈迦の思考法4つのステップの大枠、
そして仏教の核となる「縁起」について書いていきたい。

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・釈迦の思考法4つのステップ


釈迦は「心の反応」 を「苦」と呼び、苦を無くし、
より自由に自分らしく生きるための4つのステップを紹介している。

・ステップ① 苦諦(くたい)「苦」の理解、認識
・ステップ② 集諦(しったい)「苦」の原因の解明
・ステップ③ 滅諦(めったい) 「苦」の原因を滅した状態
・ステップ④ 道諦(どうたい)「苦」から自由になるための実践法

この4つのステップを「四聖諦」(ししょうたい)
または、「四諦」(したい)と呼ぶ。


では、4つのステップについて…と、話しを進めて行きたいところだが、4つのステップをより分かりやすくするために、4つのステップの詳細を書く前に、いくつか書いておきたいことがある。

・諦(たい)という言葉について

四諦の諦(たい)は、あきらめると書く。
何ともマイナスイメージがわく言葉を使っているが、
この「諦」という言葉、実はヨーガ・スートラ(ヨガ経典の1つ)の中にも出てくる。
ヨガを学んでいる方には、馴染みある言葉
「Satya」(サティヤ)が、語源とされる。
スートラ上では、八志則の道徳的な教えに出てくる…「嘘をついてはならない、正直、誠実」などと教わることが多いが、本来の意味は「在るもの、あるがまま、真実、真理、ブラフマー」と言われる。
それは、仏教でも同じく「真理」という意味で使われる。「明らかにする」「明らかに観る」とも訳される。
諦めるとは、明らかに観る、なのだ。

ということは、
四諦とは、苦から自由になるために釈迦が説いた
4つの明らかに観ること="真理"。
真理…と書くと、小難しい感じがするので、
4つの"ちゃんと理解すべきこと"としておこう。
(この "ちゃんと理解" がとても難しいことなのだけれどw)

四諦がどんなものなのか?大枠が分かったところで、
次に知っておきたい事は、仏教の一番「核」となる思想 「因果」または「縁起」について…

・土台となる思想 「縁起説・因果説」

先程も述べたように「縁起」は、
仏教の「核」となる真理…いゃ、理解すべきこと。
この「縁起」を本当に理解出来たら悟れる、と言われるくらいの教えだ。
それだけに根本理論でもあり、とても難解な教えなのは大前提にしておきたい。
この縁起の真理は「諸行無常」や「諸法無我」といった真理を理解するためにも切り離せないものでもある。

もちろん、私自身もまだまだ理解したなど言えるわけもなく、きっと一生かけても分からんのだろう…と思う。
でも、少しでも理解しようと努力したいし、実践を重ねたいと思っている。
なので、ココで書くことはあくまでも私が学んで来たことを述べるまでなので、そこはご了承を。

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この「縁起説」は「因果説」とも呼ばれる。

縁起と聞くと、縁起が良い・悪いと、ラッキーやアンラッキー的に使われがちだが、仏教での「縁起」は、ご縁がありますね!の方が、どちらかというと近いと思う。
そして、因果という言葉は、
「因果応報」という言葉は聞いたことがある人も多いだろう。善悪に関わらず、自分の行いは、自分に返ってくる。そんなイメージの言葉だ。

原因があって、結果がある。
当たり前のことのようだけれど、仏教上では単にそれだけで終わる話しではない。

確かに原因があって結果があるのだが、
その間に「縁」があると考えられ「因縁果」とも呼ばれる。

まず、この「縁起説・因果論・因縁果」 は
どんなものなのか?というと…

全ては"自立"して存在はできない。
お互いに関係し合い、依存して存在している。単体で独立したものはなく、原因と結果という"繋がり"の中でしか存在できない。
そしてその繋がりは、縁と呼ばれ、言い換えると「条件」ということでもある。条件が変われば、結果も変わってくる。
原因があって、数え切れない条件の中、当てはまった条件によった、その原因に対してのの結果が出る、となる。

例えば…
リンゴは赤いリンゴが、そのままの状態でてきたものではない。リンゴが🍎となるまで、
種から芽が出て大きくなり、木になって、花が咲き、
受粉してそれが実になり、光合成によって赤くなり、リンゴ🍎になる。リンゴの種は放っておいても芽は出ない。芽が出るまでには水や天候、土壌の状態などが整っていなければ、芽は出ない。種という原因は他のものとの繋がりの中で芽になる。木になる、花が咲くなど全て同じ事だ。
気候条件や土壌の状態によっては、市場に出回る赤くて傷のない甘いリンゴにはならない場合もある、
つまり、🍎に育つまでの過程にある条件によって、
🍎は、一般的にイメージされる🍎ではなくなってしまうと言う結果になる。原因→縁(条件)→結果

さらに、
「縁起説」を使って、言葉で存在定義をしてみる。

縁起とは、全ては"自立"して存在はできない。
お互いに関係し合い、依存して存在している。ということ。
これを元にリンゴという存在を考えてみると…

「リンゴ」を知らない人に
リンゴの説明をして下さい。
と言われたら、どんな説明をするだろう?

赤くて、丸くて、甘くて、果物で…と、
リンゴを説明するのには、リンゴ以外の他のものを定義しないことには説明はできない。他のものと関係しなければ、リンゴはリンゴにならないワケだ。
また、説明に使った言葉もまた同じように
そのものを定義するには、別のものが必要になる。

そしてこの法則は、リンゴを説明した他の要素にも全く同じことが言えるのだ。
例えば、リンゴを説明するのに定義した「丸い」を説明するとなると…カタチ、角がない、ボール、地球…など、また他のものを繋げていかなくてはならない…これを続けたら、リンゴ1個から全てが繋がって、無限に広がっていくだろう。

極端すぎな話しだ!と思うかもしれないが、
リンゴを自分自身に置き換えて考えてみて欲しい。
「私」という存在を考えた時に、お父さんとお母さんに始まり、そのまたお父さんとお母さん………もぉ、人類どこからきた?まで繋がっていくことになる。
縁起の存在という側面だけでも、そんな壮大な話しなのだ。
この理論は、現代の分析哲学においての「存在論」と同じことを言っている。

そしてもう1つ加えて起きたいことは、
因果・縁起には、基本になる方程式が四つあるとされ、
(1) A(因)があるからB(果)がある
(2) Aが生まれるときBが生まれる
(3) AがないときはBがない
(4) AがなくなるときはBがなくなる
という4つ。
原因があって現れるものは、原因がなくなれば無くなる。この方程式から「苦」を考えると「苦」の原因を滅すれば「苦」は無くなるということになる。
つまり四諦の4つステップにも納得がいく。

①苦という状態を認識する
②苦には原因がある
③苦を滅した状態はこういう事
④苦を滅するための方法論

この壮大な根本理論である「縁起」を土台にして、
4つの理解すべきことがあることを覚えておいて欲しい。

最後に、縁起を身近に感じるために、
「縁起の瞑想」をご紹介しようと思う。

①何でも良いので、自分の目の前にあるものを1つ手に取る。
②その大切にしているものが、自分の目の前に来るまで
どれだけの人達が関わって、繋がって、今それがあるのか?をできるだけ細かく想像していく。

たったそれだけだ。
でも、想像以上にたくさんの人の繋がりが出てくるのではないだろうか?
当たり前のように目の前にあるものが、
何だか有難く感じる。そんな瞑想法。

さて、次回からは4つのステップについて書いていくのでお楽しみに♪

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