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”思春期だから”って諦めたくない関係性

前回、娘の思春期にまつわる話を書いたら、自分の思春期のことやそれが今どう影響しているかなど、ちょっと書いておこうかな、という気持ちになった。(注:書いてみたら「ちょっと」じゃ済まない長さになった。長いです。)

→前回の記事はこちら

思春期娘と暮らしていると、自分の思春期のあれこれが蘇ることしばしば。
もちろん、記憶なんて不確かなもので、すべてをくまなく覚えているわけではないし、思い出すという行為を繰り返すうちに、適宜、編集改竄脚色などがなされて、事実と離れていってしまうものだ。
それはそれとして、その記憶や印象が蘇ることによって、現在の思考や感情に大きな影響を与えていることは確か。
その上で、「わたしのストーリー」として語ります。
(そう、わたしが語る限り、わたしのストーリーでしかない、いつだって。そして、登場するひと全員にも、その人から見たストーリーがある)

さて、わたしの思春期はどんなだったかというと…
ひと言でいうと、ひとりぼっち感が強かった、というイメージ。
仲の良い友だちはいたし、家族もいたけれど、「結局ひとりぼっちだ」みたいな世界観で生きていたように思う。
そんな風に言語化してはいなかったけれど、そんな風に感じていたからあんな風にしていたんだな、ということが今になって振り返るとわかる。

考えていることや感じていることの、繊細で大切な部分は、誰にも言わなかった。”言えなかった”というよりは、誰かに聴いてもらうという選択肢がなかった、という感じ。わかってもらうための努力もしなかった。
だから、(無自覚に)相手が受けとりやすいように適当に話をしたし、最短で済むような言い方をしていたように思う。

特に母に対しては、「大丈夫」「わかった」「何でもない」「ごめんなさい」みたいな返事を多用していた。
どうでもいい話はできても、肝心なことは「大丈夫」「わかってる」みたいな感じで、心を閉じて話を終了させていた。


だって思春期だもんね、そんなの普通じゃない?って思うかしら。


「どうせわかってもらえない」「言ってもしょうがない」
わたしにとって、すごく馴染みのある気持ちなのだけれど、生まれた時からそう思っていた訳ではないだろうし、思春期だからって自動的にそう思うようになった訳でもないと思う。
少しずつ積み重なって、そう思うようになったはず。

何が積み重なったかというと、たとえば「否定される」とか「誤解される」とか「ジャッジされる」とか「矯正される」みたいなことだろうか。
それもそんなに大ごとじゃなくて、ほんの幼い頃、転んだ時に「痛くない痛くない、泣かないの!」って言われたとか(いやいや、痛いし泣きたいよ。でもそれってダメなんだと思い込む体験)、「誰々ちゃんが意地悪するの…」という訴えに「お友達と仲良くしなくちゃダメでしょ?」と言われたとか(意地悪されたショックや悲しみは行き場を失う)、風邪をひいたら「だから〇〇しなさいって言ったでしょ?」と咎められるとか(怒られるなら言わないでおこうって決めちゃうね)、そんな小さな積み重ねで、少しずつ心がぎゅっと縮こまって、大事な気持ちは奥に奥に仕舞い込まれるようになって、一番摩擦の少ない「大丈夫」とか「わかった」とか「ごめんなさい」とかを多用するようになっていったんだと思う。

「痛くない痛くない」も「お友達とは仲良くしなくちゃ…」も、決して悪意から言っているわけではなくて、子どもに強くなって欲しいとか、周りの人とうまくやれるようになって欲しいとか、そんな願いから出てくる言葉なんだと思う。
でも、そんな、願いや正しさや良し悪しの判断は、子どもに起きている”今ここ”とズレてしまいがちだ。

そのズレによって、少しずつ少しずつ、子どもが ”今”を ”自分”を リアルに感じる力はだんだん弱くなってしまう。感じていることに、肯定が返ってこない・否定が返ってくるという体験を重ねたら、そうなっちゃうよね。
そして、自己肯定感は削がれていってしまう。
自分が感じていることや考えていることを、そのままに話すのを諦める。
そもそも自分がどう感じているか、よくわからなくなってしまう。
「痛くないよ」「泣かないの」。言われてきたことを自分で自分に言うようになってしまう。「これくらい我慢しなくちゃ」「泣いてなんていられない」…

わたしの思春期の「どうせわかってもらえない」は、そんな風にして現れたのではないかと思う。(うちの母は厳しかったから、その分その傾向も大きかったかもしれない)
そんなわたしに対して母は母で「何を考えているのかさっぱりわからない」と、距離を感じて諦めてしまったのではないかと思う。

肝心な時に「どうせわかってもらえない」と人と繋がるのを諦めてしまう。
それはとっても生きづらいことだ。
娘にはそんな風になって欲しくない、そう思って子育てしてきた。

だからこそ、娘から「どうせわかってもらえない」を感じとると、「めっちゃわかろうとしてるんですけど?????」と怒りたくなるわたしがいる訳だ。

娘の感じている「どうせわかってもらえない」は、わたしが感じていたそれとは、少し色合いが違うように感じる。
わたしが「どうせ否定される」と感じていたのに対して、娘は「正しく理解してもらえない」みたいな感じに思っているようだ。

正しく理解することは、場合によってはとても難しい。
自分で自分の感じていることを正しく理解することだって難しいんだもの。
微妙なズレや違和感を根気強く感じとって、ぴったりの言葉や感覚に辿り着こうとする努力が要る。
でも、だからこそ、一発でわかってもらえなかったとしても、両者が根気強くそこに居続ければ、それは叶う。

「めっちゃわかろうとしてるんですけど???」で、娘のスイッチが入れ替わることも起きる。
「どうせわかってもらえない」から「わかってもらえるように話そう」に。

もちろん、毎回、毎日、がっつり向き合う訳じゃないよ。
(そんなのお互いに疲れちゃうよね。笑)
でも、ここぞという時にそれができるのって、安心なありがたいことだ。

”思春期だからしょうがない”って、関係性の大事な部分まで諦めてしまうのは、とっても切ないさびしいことだと思う。
「もう、あの子のことはさっぱりわからない」っていうカタチで子離れするんじゃなくて、「あの子なら大丈夫」って子離れしていきたいなぁと思う。


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