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アダルトチルドレンでシングルマザーな私の不登校のお話

私は、とある人口30万人ほどの地方都市で生まれました。
このひとつ前の記事にも書きましたが、両親はとても不仲で、隣の家に住む祖父母の存在を心の拠り所として成長しました。
祖父母は明治末期の生まれで、私が生まれた時点で既に70歳。
それでも、毎日のように私の相手をしてくれました。

幼稚園から帰った私はすぐに家から飛び出して、祖母と一緒に遊ぶために隣の家へ走るのが日課になっていました。
オセロ、トランプ、将棋、折り紙、めんこ、おはじき…大きなカレンダーの紙の裏に自分ですごろくを書いて一緒にやったり。
さすがに外遊びに付き合ってもらうのは無理でしたが、家の中での遊びに延々と付き合ってもらっていました。
オセロもトランプも、毎回ほとんど私が勝ったのですが、今思うと、それも祖母の優しさだったのかもしれません。

祖父は言葉数は少ない人でしたが、よく私を外に連れ出してくれました。
遊歩道を長い時間をかけて散歩したり、少し遠くのスーパーまで一緒に買い物に行ったり。
また、幼い私が癇癪を起してキーキー泣きわめいた時には「放っておけばいい」と厳しいことは言うのですが、その後には必ず私を負ぶって家の周りを歩き、気持ちを切り替えさせてくれるのでした。

私は愛情は言葉はなくても感じられるものなのだと、祖父から学びましたし、逆にどんな言葉があったとしても自分がそうとは思えないものは愛ではないのだと、考えるようになりました。
それも私らしく極端すぎる考え方ではあるのですが…
母からの「愛情」は私には偽物にしか映りませんでした。

祖父母の家は私が安らげる大切な場所でしたが、中学2年の時、急に首都圏に転居することになり、そこから人生が一変してしまうのでした。

私の父は「出稼ぎ」という謎の名目で、田舎には仕事が無いからと自分の故郷の街へ一人出て行き、そこで運転手の仕事に就きました。たしか、私が小学校中学年の頃だったと思います。
その後、父の会社が所有する雑居ビルの管理人が高齢で引退するので、交代要員を探しているという話があり、父から母へと声がかかりました。

正直、今思い返しても、なぜそんなことを父が提案したのかよく分かりません。「不仲」という表現を鼻で笑えるほど、両親の関係性は究極に最悪でした。
ただ、問題があったのは主に父の方で、母は虐げられる側だったので、母さえ我慢して首を縦に振れば、成立し得ないこともない提案だったのです。

転校したくなかった私は、母に「離婚してほしい」と頼みましたが、その願いが叶うことはありませんでした。
その理由を母は「父さん(祖父)が行きなさいと言った。父さんがあんなにはっきり意見を言うのは初めてだ」と、祖母に向かって話していました。
またこいつは自分で考えて決めるのではなく、人の意見に頼るのか、と私は怒りを感じました。

私の怒りと憎しみの対象は、自分を転校と不登校に追いやった父だけでなく、自分を守ってくれなかった母へも向けられるようになりました。

小学生時代の私は、学校では周りの顔色を伺い、喧嘩している友人がいると関係を取り持つために奔走したり、おどけてみたりとピエロのような存在でした。楽しくなかったわけではないですが、子供ながらに少し疲れる役を演じていたように思います。
「次の学年でも同じクラスになりたい人」というアンケートでクラスで一位の票を得たのも、そういったキャラクターの賜物でした。
一方で男子と話すことはとても苦手で、男子からは根暗に思われていました。それもまた、おそらく父兄の影響でした。

私はそういった自分が嫌だったのですが、中学に入るタイミングで上手くキャラクターを変えることに成功し、部活も始め、まさに思春期ど真ん中の人生で最もデリケートな時期を過ごしていました。
そんな中、国立の小中一貫校から、大都市の市内一成績が悪いという繁華街近くの中学へ転校するのでした。

「ちゃんと良い学校を選ぶから」という母の言葉を信じて渋々承諾したのですが、学区に制限があって入れなかったという理由でその公立中学に転校した結果、私は一週間ほどで不登校になりました。

いじめられたわけではありません。話しかけてくれる子も何人もいました。
ただ、クラスメイトの髪を染めた女子が、配られたばかりのプリントを急に立ち上がってビリビリと破いてゴミ箱に捨てる姿を目にしたり、あまりにこれまでと違う環境に上手く適応することができなかったのです。

朝やたらと早くに目が覚め、「学校に行きたくない」という猛烈な恐怖感に襲われながら、起床時刻が迫るのを布団の中で鬱々と待つ時間は、地獄のようでした。

そうして、中学2年生の4月から卒業する日まで、4畳半の窓もない狭い部屋で昼夜逆転した生活を送ることになるわけですが、その期間に私は非常に多くのものを失いました。

田舎の友達から手紙が来ても、恥ずかしくて不登校になっているなんて返事を書くことはできません。近況を聞かれても答えられない。そうして、返信しないでいることで交流が途絶え、それまでの人生で得たすべての友人がいなくなりました。

ずっと狭い部屋でテレビを見たり机に向かったりしていたので、視力も一気に落ちました。運動不足も深刻でした。窓がないので目覚めたときに時計を見ても、朝か夜かも分からない。隣の部屋には転校の原因となった、殺したいほど憎い父親がいるので、父の在宅中に自室から出ることはありませんでした。
白昼夢というのか、何かのきっかけで怒りが心頭に達した時、襖を開けて父親の頭に包丁を突き立てる映像が、まるで現実のように非常にリアルに頭の中で再生されたことがありました。その幻が終わった瞬間にハッと現実に返るという不思議な体験でした。

大好きだった祖母が体調を崩し亡くなったのも、生きがいだった娘と孫がいなくなってしまったことが原因であることは間違いありません。
転居が決定した時、祖母が「私どうしたらいいの」と寂し気に言っていたのが今でも忘れられません…。
私の人生における一番最初の最も悲しい別れが、祖母との別れでした。

中学の担任が、様子を聞き取りにうちに訪ねてくることもしばしばありました。私ではなく親と話をするのですが、部屋は襖で隔てられているだけなので、会話は当然すべて聞こえてきます。
担任以外の別の教師が一緒に来たこともあり、その時に「娘さんはこの部屋にいるんですか?直接話せますか?」という会話が聞こえてきて(いるのであれば当然それが聞こえていることも向こうは承知のはず)、心臓を鷲づかみされるような思いをしたこともありました。

転校することを告げられた中1の冬、初めて「消えたい」という感情を覚えました。冬の寒い日に庭に寝転がって、このまま消えられたらな、と考えた時の体の冷えと感情を、今もリアルに思い出すことができます。
これがその後は何度も抱くことになる自殺願望の初回でした。

中2で不登校になって人生に絶望してからは、電気が消えた部屋の中で何度も天井に手を伸ばしました。
布団に横たわった私の手を、スルスルと下りてきた悪魔の黒い手が引き上げてくれる…そんなことを毎日願いながら生きていました。

それでも私が真っ暗な絶望の底から這い上がろうと思えたのは、やはり祖父母の愛情が心の中にあったからではないかと感じます。
もし本当に不仲な両親と暴力的な兄弟だけがすべての環境で育っていたら、立ち直る事なんてできなかった気がするのです。

自分でも何をきっかけにそう思ったのかは覚えていないのですが、私は「大学に行きたい」という目標を持つようになりました。そして、狂ったように家庭学習の教材を使って延々と勉強をし、学校にも塾にも行かず、学力を取り戻すのでした。

内申点ゼロの私は故郷に戻って私立の高校に進学すると、80歳手前の祖父との二人暮らしを始めました。一見すると、制服を着て普通の高校生と変わらない姿ではありましたが、その2年間で歪んでしまった感覚と情緒は、間違いなく私の生き方に影を落としていました。

それが顕著に表れるのは高校を卒業した後なのですが…
友人の陰口を言う人に過剰反応して苦しくなる(摂食障害も発症しました)
他人に対し異常に攻撃的になる
破滅的な人間関係しか築けず、関係性が長続きしない
大勢が集まる場で空気が悪いと、自分のせいでは…と責任を感じる
等々…

まさかそれが母親になっても治らず、こんなに自分を苦しめるとは当時は思ってもいませんでしたが…
それはまた別の機会に書こうと思います。

長くなってしましました、明日出勤なのに、もうこんな時間…。
もっと書きたい、毎日書きたい、書きたいことが止まりません…。
書くことで孤独感や怒りや悲しみを埋めてるのだと思います。

もっとやるべきことはたくさんあるはずなのに。
どんどん毒親ぶりが酷くなっていく自覚がありながら、止められません。。
良い親になりたいのに。
不登校だった時代の自分の年齢に近付く長子に、自分が経験していない中学生活のサポートが上手くできるのか不安です。
徐々に大人の男性になっていくことに、果たして男性に嫌悪感がある自分が適切に対応していけるのか…甚だ疑問です。

彼はきっと私のもとを離れていくんだろうな。
寂しい反面、思春期の彼を見ていると、それも仕方ないことなんだな、と手を離したくなる気持ちもあります。
これまでと同じ感覚で行くときっと過干渉なのでしょう。私にいろいろ言われるのがうるさくて仕方ないようです。

中学生活が、とても楽しいそうです。彼はきっと不登校にはならないんじゃないかな。
私は自分の経験から、子供たちを絶対に転校させたくない、と思ってきました。
そんないろんな「すべき」に縛られ、がんじがらめになっています。
健全に育っていれば「すべき」ではなく「それでもいいかも」くらいに思えるのでしょうけれど…
自分の子供時代に不満足だから、子供たちのことは完璧にしたい、でも全然叶わない…

いつまでもこの呪縛から逃れられないのでしょうか。
毒親は連鎖する。でも子供たちもこの呪いに捕らわれてしまったらと考えると、悲しすぎます。

どうしたらこのループから抜け出せるのか。
今の生活で満足してしまう、という選択もあるのかもしれません。
でも、そしたら止まってしまうのです。少しでも若いうちにやっておかなくてはならないことがある、そう思っている私には、やはりこのまま苦しみが続くし、孤独感と対峙して進んでいくという選択しか今は無いようです。
長過ぎるので、また別の機会に。

児童相談所の職員が子供を取り上げに来る悪夢で昨日は目が覚めました。
今日はしっかり眠れますように…。

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