時間に食われる私たち
効率、生産性、タイパ…etc.
限られた時間にどれだけの成果を挙げられるか、いかに無駄な時間を削って、メリットを最大限得られるか。
そこが最重要視されるようになった今日の社会に正直、危機感を覚えている私。
AIをはじめとするテクノロジーが発展し続ける現代において、起こるべくして起こった流れなのかもしれません。
仕事で業務の効率化に携わっていた身としては、不必要に消費している時間を減らし、限られた時間・人数で最大限のパフォーマンスをすることが、会社にとっても働く側にとっても大きなメリットになることはよく理解しています。
でも、それが芸術の分野だとどうなのだろうと思うのです。
最近「映画を倍速で観る人」や、「本をまるまる1冊読むのではなく、要約だけを読む人」が増えていると聞きます。
その作品からいかに短時間で最大限の情報を得られるかが重要視され、芸術が本来与えてくれる、心で何かを感じる、心を動かす体験が蔑ろにされている現状。
もはや芸術が芸術ではなく、情報を得る媒体と化してしまっている現状。
芸術を好み、それに何度も救われてきた私としてはとても残念でなりません。
例えば映画だと、間であったり余白を楽しめるものはとても魅力的。
監督でいえば、ジム・ジャームッシュやロイ・アンダーソン、アキ・カウリスマキなど。(個人的な好み)
言葉や会話はなくとも、そこに流れる空気や間、視線のちょっとした動きから感じられるものがあり、それによって私たちはクスッとしたり、切なくなったり、心があたたかくなるのです。
でもそれを飛ばしてしまっては、そこに風情も何もありません。
本でもそう。
読み進めていく中で出会う、ある一言、ある一節に感動したり、心が救われることがある。
でも、要約では省かれてしまってるかも。
心に響くものは、人それぞれ、そのときどきで違うから。
映画1本、本1冊を味わう時間をも無駄に感じてしまう、というところになんとも言えないさびしさとやるせなさを覚える。
これを現代社会のせいにするのであれば、テクノロジーの進化が人類に与えた弊害は非常に大きいものだと。
有限の時間を効率よく使うことも大事だけれど
無駄と思って切り捨ててしまっているところに
けっこう大切なことが転がっていることもあるのです。
最後に私の好きな一節を。
忙しないこの社会を生きる私たち。
芸術に触れ、そこから湧き出る感情を味わう余裕を常に心に飼っていたいものです。
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