最強のふたり
「このチョコ、健常者専用。」
差別反対?障がい者に寄り添った社会?
性別・人種・障害・国籍・言語・思想・宗教
違う違う。
それらの先には間違いなく「同じ人間」がいる。
障害と肌の色。
彼らはその先に存在する人間を見ていた。
大富豪で紳士としてのあらゆる知性を備えた障がい者・フィリップ
スラムで育ち様々な葛藤を抱えた黒人青年・ドリス
何もかも満たされていたフィリップには足りないものがあった。
「毒」と「無礼」と「対等な人間関係」
この映画は、よくある差別や障害を乗り越える物語ではない。
そもそも差別や障害を壁としない二人の人間の物語だ。
こんにちは。
谷塚総合研究所、映画部の塚本です。
今日は、2013年 日本アカデミー賞 最優秀外国作品賞 受賞の作品
「最強のふたり」を紹介
パラグライダーの事故で首から下が全身麻痺となり、車椅子生活を送る大富豪フィリップ。
彼の新しい介護者を選ぶ面接に、“失業手当のために不採用通知がほしい”と本音で語る黒人青年ドリスが訪れる。
そんな本音丸出しの破天荒ぶりに興味を抱いたフィリップは、ドリスを介護者として雇うことに。
未経験の介護の仕事に悪戦苦闘しつつも、ドリスは豪邸の住み込み生活を満喫し、趣味も生活習慣も違うフィリップの人生まで変えていく。
この映画の優れている点はそういった障がい者を何かのアイコンとして描かず、「糞もすれば恋もする」というありのままの人間として描いていることである。
この映画では世間から逸脱したアンタッチャブルなはずのふたりの心に触れるという反語法的なはなしになっているところも興味深い。
うわべだけの同情ならむしろ無用。フィリップにとって必要なのは日常生活に立ちはだかる障害の介助である以上に、心のバリアフリーだったのだ。
全てを備えたフィリップだが、彼の心に蓄積していくもの。
それを取り除くことは、彼がいくら大金を払おうと実現できなかったのかもしれない。
黒人青年ドリスは、フィリップが求めるものを持っていた。
毒
首から下が動かないフィリップは、生活の大半において他人の援助が必要である。
彼の周りには、彼を援助する人が多くいた。
大富豪であるフィリップは介護人だけでなく、シェフや庭師を雇い、豪邸には多くの使用人がいる。
彼らの人格はもちろん優れているが、お互いのコミュニケーションにはどうしても「障がい者」というノイズが入る。
それも仕方ない。フィリップと接するためには何もかもが健常者とは違うのだから。
フィリップを囲む優れた友人・使用人たちは、純粋にフィリップを見ることが出来ない。
フィリップは知的で紳士的だ。
身体がどのような形であっても、彼の周りには人が集まるだろう。
だが以外にも、フィリップの求めるものは彼らの周りの「良い人」ではなく、スラム育ちの黒人青年が持っていた。
ドリスはユーモアや他人を思いやる心を持ち合わせてはいるが、介助の能力や障がい者への知識は皆無に等しい。
「このチョコ、健常者しか食べちゃダメ」
ドリスはフィリップに、面と向かって言い、ジョークだと笑い飛ばすのだ。
フィリップの女性との文通に対し、
フィリップ
「私はまず、心と心で繋がりたいんだ。」
ドリス
「心と心で繋がるのはいいけど、ブスだったらどうするの?
ブスの心と繋がりたい?」
ドリスの正直な言葉は、周りの者をぞっとさせる。
ただ、ドリスはフィリップに対して正直なのだ。
人格の優れたフィリップだが、彼だって人間であり男性だ。
ドリスのような正直な心も持ち合わせてはいるが、フィリップの優れた人格が彼の正直さを表現させないようにする。
フィリップだって「ブスだったらどうしよう」と考えてはいる。
だが、文通という美しい世界を前にして、彼の人格は容姿を心配することを許さないのだ。
ドリスは横にいて、彼のもう一つの心を代弁する。
ドリスの正直な毒が、フィリップのもう一つの心を表現する支えになっている。
もう一つ。
首から下が動かない障がい者にマリファナを勧めるのは、世界でもドリスだけかもしれない。
無礼
ドリスは正直で良い青年ではあるが、フィリップの周りにいる上品な人間からすれば、彼は無礼でしかない。
ドリスの発言の一つ一つが、周りの者をぞっとさせる。
だが、フィリップにはそれが心地良いのだ。
ドリスはオペラ鑑賞にスウェットとパーカーで行く。
フィリップはそれをとがめない。
ドリス
「おいおい、草がしゃべってるよ!」
「これいつまで続くの?4時間!?勘弁してくれよ!」
フィリップは紳士的で芸術面での造詣も深い。
だが、ドリスのように正直で少年のような気持ちだって持っている。
ドリスの無礼さは、フィリップにとって心地よいのだ。
フィリップ自身、ブラックジョークや人を見下した笑いが好きだ。
彼の人格がそれを自分自身に許さない。だが他人であるドリスであれば別だ。
フィリップ自身の優れた人格が、ドリスの表面的な部分ではなく、もっと深くドリスという人間を洞察する。
フィリップにとっては肌の色など関係なく、ただドリスがそばにいて心地よく、良い友人なのだ。
対等な人間関係
フィリップ
「あいつ、俺に携帯を差し出すんだ。俺が障がい者なのを忘れてな。」
ドリスにとってフィリップはフィリップであり、その次に障がい者とくる。
フィリップの周りの人間とは明らかに違う。
彼らは人格が優れているがゆえ、フィリップが障がい者だということを忘れたりはしない。
だがそれ自体が、フィリップをフィリップだとみるのを阻む。
フィリップには身体のサポートも必須だが、それ以上に障がい者というフィルターを通さずにコミュニケーションが出来る友人が必要だった。
ドリスはそれを、当たり前のようにこなした。
冒険とイタズラ
毒と無礼が繋いだふたりは必然と、冒険とイタズラが大好きだ。
フィリップの車いすは二人の手で改造され、安全なんて度外視されたスピードを出す。
女とマリファナが彼らを飲み込む
フィリップの誕生日に、ドリスは踊り倒す
フィリップは踊れないのに、だ。
ドリスにとって「フィリップは踊れないから」という考えはない。
「フィリップの誕生日だ。みんな踊れ!」
みながフィリップに合わせることはない。
フィリップのために楽しみ踊り、フィリップの誕生日を祝福する。
それが、フィリップにとって最高のプレゼントだと。
ドリスはフィリップに対して無礼か?
フィリップを侮辱しているのか?
それは、実際分からない。
まとめ
四肢の自由以外の全てを備えたフィリップ。
彼が求めていたのは同情や四肢の自由ではなく、対等で正直な友情だ。
ドリスはただ、フィリップを人間としてみていた。
それは、彼が未熟だったからかもしれない。
ただ、その未熟さがフィリップにとっては心地よく、ドリスという人間と対等な関係を築けた元である。
障害や差別と、どう向き合うか?
この映画では、それを学ぶことは出来ないかもしれない。
でも、肌の色や体の不自由以前に、人と人とが存在する。
その事実に気づき、真の「バリアフリー」となる人間関係を築くきっかけになることは間違いない。
私たちは様々な肩書を背負ってはいるが、それ以前に人間でありここに確かに存在している。
私たちの目は、差別をなくすという名目のもと、肌の色や障害といったレッテルだけを見てはいないだろうか?
そんなことを考えさせられ、笑いそして泣かせる映画です。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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