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制限をつくっているのは誰?!


2年前の今頃はバリでリトリートをしていたよう。


私にとって、とても大切でかけがえのない時間だった。


でも、このときは娘が1歳になったばかりで、行きたい気持ちは高まる一方、現実的にどうしたら行けるのか?と葛藤していた。



夫は基本的に反対しないので、
「バリでリトリートに参加しようと思う」と言うと、「いいね!ぜひ行っておいでー!」と後押ししてくれた。



ただそのとき私は育休中で、4日間家を空けるとなると、さすがに夫も仕事があるし、娘を両親に預けるしかない。



母はThe 昭和的な価値観の人で、
お母さんなんだから〜、子どもを第一に考えなさい!というタイプ。

なので、きっと反対されるに違いないと思い、なかなか言い出せなかった。




そして、リトリートに行きたいもっともらしい理由をならべて武装した上で臨んだところ、

なんとすんなりと、
行ってきたら?とのこと。


両親も孫といれることが嬉しかったようで、さらりと快諾してくれた。





なんだ、制限は自分が勝手につくっていただけだったんだ、、と感じた一つの出来事だった。



・・・



そしてその後、仕事に復帰。


仕事も子育ても上手くいっているときは、 

やりたいことも、子どもとの時間もとれて
人生充実している!と感じられていたけれど、


どちらかが上手くいかないことがあると、 


子どもがいて時間が限られているから満足する仕事ができないのではないか?
とか

その一方で、

子どもと向き合う時間が少ないことで、娘には申し訳ないという気持ちや、 

私はこの子を保育園に預けてまで価値のある仕事ができているのだろうか?

と自問することもしばしばあった。




週末はヨガを学びに行ったりと
世間一般的なお母さんと比べると
きっと私はやりたいことをやっているように見えていたし、事実そうだったと思う。



けれど、言葉や態度には表さないまでも、
私の奥底にはなんとなく、
人生にどこか制限があるような感覚があったように思う。



娘のことは大切で、愛しているけれど、
なんだか物足りない、
私の人生これでいいのか?という感覚。


そしてそんな風に感じていることに
後ろめたい気持ちがあった。



・・・



それから月日は経ち、そんな感覚も忘れていたのだけれど、


先日娘が3歳になったとき、
自然と私の口から「生まれてきてくれてありがとう」という言葉が出てきて


その変化に自分でも驚き、涙が出そうになるほど嬉しかった。


  


「勝手に制限をつくっているのは自分」

ヨガやNLPの学びを通して、それを改めて認識した。




完璧主義で"良いお母さん"でいるよりも、
ちょっと手を抜いてても
"ゴキゲンなお母さん"の方が、子どもも嬉しいはず。




これからも環境や役割を言い訳にせずに、
私らしく生きていきたい。





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