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ある街での出来事⑤【小説】

翌日私は、バイト先のスケジュールの書き間違いのせいで、ドーナツショップとコンビニの両方のシフトがだぶっていた。

私は彼が一人旅にそろそろ出発してしまうことを考えて、コンビニの方を断ることにした。
一昨日のドライブの日も外出先から急に断りの電話を入れてしまったので、かなり覚悟をしないといけないだろう。

しかし少しでも、彼と会える時間を大切にしたかった。
しばらく悩み考えた結果、思いきってコンビニのバイトを辞める決心をした。


私はその日15時から20時まで、彼は19時からバイトに入っていた。
私は彼に渡す為に、ある女性アイドルの写真集を二冊持って来ていた。
ドライブの時に彼もファンだと言っていたので、それなら写真集を持っているから貸してあげましょうか、と軽く約束していたものだ。

しかしせっかく持って来たけれど、本当に渡そうかどうか迷っていた。
また今度の機会にとっておこうか、とも考えていた。

店頭のセールス中、ショーウインドゥのある種類のドーナツの在庫が無くなってしまい、私はキッチンに出来上がっているストック分を取りに行った。

キッチンでは彼が一人で清掃をしていた。

「お疲れ様です。」

と頭を少し下げて、ドーナツが並べられているトレイを抱えてキッチンを出ようとしたその時、

「わわっ!!」

私は油が飛び散っているタイルの床で、足を滑らせて態勢を崩し、叫んだ。
ここはいつもツルツル滑りやすいのだ。
さすがに尻もちまでは着いたことはまだなかったけれど、今回はかなり危うい状況だった。

「危ない!!」

彼はすぐとんで来て、手を貸そうとしてくれた。
けれど私はひどく恥ずかしくて、何もなかったように素早くその場を離れてしまった。

仕事が終わって更衣室で服を着替える間、私はやはり後悔した。

よし、さっきのお詫びも含めて、やっぱり勇気を出して今日この写真集を渡そう……!
私は決心した。
彼はまだキッチンにいた。

「あの、河野さん。」

私はめいっぱい明るく声をかけた。
しかし先ほどのことがあってか、彼はうかない表情をしているようにも見えた。

「あの、これ、◯◯ちゃんの写真集なんです。
河野さんが好きって言ってたから、持って来たんですけど……。」

「ああ……ほんと? 嬉しい。」

彼はそれほど嬉しそうな顔をしなかった。
やはり怒っているのだろうか……。

「あ、でも、バイクで来てるんでしょう?
持って帰れますか?」

めげずに言葉を続けた。

「ん、どれくらいの大きさ?」

「これなんですけど。
じゃあ、休憩室のテーブルの上に置いておきますね。」

それでも私は渡せた嬉しさでいっぱいで、家路を急いだ。


次の日はバイトは入っていなくて、自宅でのんびりしていた。
午前10時を回った頃、お店から自宅に電話があった。
チラシ配りのお手伝いという呼び出しだった。
もしかして河野さんにも会えるかもしれない。
私は少し期待を抱いて家を出た。

お店に到着すると、彼は来ていなかった。
数人で同僚の男性の吉田さんの車に乗って、近所の団地を回った。
真夏のチラシ配りというのは、かなりの重労働だった。

夕方近くになり、ようやく全部配り終えて吉田さんのおごりで、この前ドライブの最後に寄ったファーストフード店で休憩して飲み物を飲み、お店に戻ったのは4時過ぎだった。
私は疲れ果ててしまって、もうチラシ配りなんてまっぴらだという顔をしていた。

しばらくして突然、河野さんと寺尾さんが現れた。
どうやら二人もチラシ配りをして来たらしい。
休憩室にみんな集まった。

私は思いきって話しかけることにした。

「あの、写真集見ました?
◯◯ちゃん可愛かったでしょう?」

丸イスに腰かけていた彼は、振り向いて私を見た。

「ああ、あれ今、母親が見てる。」

「えっ、お母さんが? ふふっ。」

私は少し驚いて笑った。
それから話を聞くところによると、彼はいよいよ明日出発する予定らしい。

「じゃあ、気をつけて行って来て下さいね。」

そう挨拶して、家に帰ることにした。


毎年8月のはじめには、恒例の大きな花火大会が催される。
市内の大きな公園の夜空には、大パノラマが広がる。
大勢の人々が集まる夏の風物詩のイベントだ。

私はひそかに河野さんと、ううん、バイトのみんなも交えてでもかまわないから、一緒に行けないだろうかという淡い期待を持っていた。
だけれど、彼は承知のとおり関西へ行ってしまった。

私は友人と二人で出かけることにした。
夕方までバイトが入っていたので、終わる頃に彼女にお店に来てもらった。

久しぶりにあった旧友に、時々電話でも話していたけれど一部始終を話した。
バスで公園前に降りると、もうかなりの人だかりができていた。
なかなか進まない人の波を根気よく押し進んで、やっとどうにか中心部の大きな池の前に出ることができた。
水面の風が顔に感じられた。

間もなく大輪の花火が上がった。
大きな音はドーンと胸を叩く。
歓声と共に、二人ともしばらく見とれていた。
私はぼんやりと、この夏の出来事を思い浮かべていた。

「来年はお互い、彼氏と来れたらいいね。」

「ほんとにね。」

ちょっとしみじみと、そう言って笑い合った。


ある夜、バイト先の同僚から電話がかかってきた。

「夏子ちゃん、悪いんだけど、明後日私の代わりにバイト入ってくれん?
用事があるなら、いいけど。」

「明後日? いいよ、わかった。
何時から?」

「ほんと? よかった。
5時から。ありがとね。
あっ、それから、今日河野さん大阪から帰って来てたよ。
家に帰る前に、お店に寄ったみたい。
お土産とか持ってた。」

「えーっ、ほんと!?
見たの? 
いいなぁ、昌子ちゃん。」

「夏子ちゃんもそのうち会えるって。
じゃあ、バイト頼んだね。」

彼は予定より、少し早く帰って来たようだった。


友人の代わりにバイトへ行った日、彼の名前はシフトになかった。

じゃあ、今日は会えないか。

ガッカリ肩を落とした。
すると、突然バイクのヘルメットを被ったままの彼の姿が現れた。

今の、河野さん……? 河野さんだ!!

いつも突然現れる。

19時になり、10分間の休憩をもらって、高鳴る鼓動を押さえて休憩室へ向かった。
彼は丸イスに座って、雑誌をめくっていた。
私も側にあった丸イスに腰かけた。

「河野さん、久しぶりですね。
無事に帰って来られてよかったですね。
どうでした、楽しかったですか?」

「うん。まぁ、今までもバイクでよく遠くまで行ってたからね。
これで何回目かな。
楽しかったよ。
あっちで、いろんな友達の家に泊めてもらってた。」

「そうなんですか。」

彼はやはり、かなりのバイク青年のようだ。

「あっ、それ、お土産。
その紙袋の中。
◯◯ちゃんの写真集、どうもありがとう。」

「ああ、今日持って来たんですね。」

紙袋は、私が写真集を入れて持って来ていた物だった。
お土産がこの中に入っているらしい。
ゴソゴソ、取り出してみた。
キーホルダーだった。
金属製の四角い緑色の土台に、"誠"と書かれた旗を持つ少年のイラストだった。

「わー、可愛い!
御守りにしてもいいですか?」

「……うん。」

彼は少しびっくりした表情で返事をした。

私は嬉しくてたまらなかった。
でも、実はこれで宝物は二つになる。
ドライブに行った時に彼が渡してくれた有料道路の通行券を大切にしまってあるのだ。
あっという間に休憩の10分が過ぎてしまった。

「あっ、休憩時間ちょっと過ぎちゃった!
お店行ってきますね。
じゃあ、どうもありがとうございました。」

彼を後にして、セールスに戻った。
しばらくして、彼が帰って行く姿を見送った。


9月1日。
例年なら、昨日で夏休みは終わる。
しかし今日は日曜日だった。
私はその日、朝7時からバイトに入っていた。

自宅からお店まで少し距離があるので、5時半に起きて始発のバスに乗って来たのだけれど、夏の早朝は夜明けが早く、もうとっくに外は明るかった。

お店のシャッターを、両手でガラガラと持ち上げた。
上げる時の音がかなりうるさいので、いつも気が引けながら腕に力を入れる。
店内に入ると、向こう側だけ電気が点いていた。

たしか、今日のナイトは溝口さんだったよね……。

あのドライブの日以来、溝口さんとはよく話をするようになった。
先日も彼が忘れてきた辞書を貸してあげたばかりだ。

ショーウインドゥを横切り、店内を通り過ぎようとした時、

「うーーーん。」

と声が聞こえた。

「おはよう、佐藤さん。」

「わわっ、おはようございます。
ここで寝てたんですか?」

見ると、客席の茶色の長イスの端には、枕の代わりに休憩室から持ってきたのか、クッションが置いてある。

「そこにも河野さんが寝てるよ。」

「えっ!」

たしかにもう一人が、反対側の長イスに横たわっていた。
まだ起き出しそうにない。

私は照れて、はじめての彼の寝顔をよく見ずに通り過ぎ、木戸を押して奥の更衣室へ向かった。

河野さんもお店に泊まっていたなんて……。

開店時間の7時になり、再びお店へ出て店内の照明のスイッチを全部入れて、BGMのテープを流した。
お客様がポツリポツリと入店して来た。

しばらくすると、彼はお店の隅の席に座り、本を読んでいるようだった。
溝口さんがカウンターに寄って来て、少し大きな声で、

「あのね、河野さん。
今日は、ここで一日勉強するって。」

と、わざとらしく言った。
ドキッとして、つい彼の方を見た。

「そ、そうですか。」

私はカウンターの向こう側にそそくさと逃げた。
しかし何分かすると、彼の姿はなかった。

2時間が経ち、初めの10分休憩をもらって休憩室へ向かうと、窓から彼の姿が見えた。
コンコンとドアをノックして、中に入った。

「失礼します。」

彼は壁際に備えられたテーブルに、学校の教科書らしき物を開いて、手にはシャープペンシルを握っていた。
私は斜め向かいの丸イスに座った。

「勉強してるんですか?
そういえば、もうすぐ前期試験ですよね。」

「うん。佐藤さんも、もうすぐだろ?」

「そうなんですよ、嫌だなぁ。
でもその前に、夏休みの宿題がまだ終わってないんです。」

「宿題? 何があるの?」

「読書感想文があるんです。
先生が指定された本の中から一冊選んで、書かないといけないんですけど。
なんと、まだ本も読んでないんです、はは……。」

「まだ読んでない?
けっこう楽天家なんだね。」

ズキンとした。
楽天家なんて……。
なにか、軽蔑されたような気分がした。
彼って思っていたよりずっと真面目な人なのかもしれない。
その思いがけないショックは、さっきまで弾んでいた心を吹き飛ばした。

少し沈黙が流れて、休憩の10分が過ぎたので、私は席を立ち上がった。

「じゃあ、勉強頑張って下さいね。」

彼はこちらを見ないで、少し頷いただけだった。
どうも機嫌が悪いように見える。
さっきの溝口さんの言葉がまずかったのだろうか。

そうして、短大1年の夏休みは終わった。













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