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ある街での出来事⑨【小説】

年が明けてからは、予想していたとおり彼に会える日はほとんどなかった。
ドーナツショップに行くと、たまに友人が、

「昨日、河野さんお店に来てたよ。」

と、教えてくれるぐらいだった。
それでもこのバイトを離れてしまえば、彼とのつながりは何も無くなってしまう。
寂しさを抱えたまま続けていた。

気にかけていた佐伯さんは、就職が決まったということで最近バイトを辞めたと聞いた。
でも彼とはどういうふうになったのか、詳しいことはいまだにわからない。


彼となかなか会えなくて、もうすぐ2ヵ月になる2月の下旬、ドーナツショップの元祖とも言うべき、OBの人達も集まる飲み会が行われることになった。
彼も来るということで、久しぶりに会えることになった。
この店舗は2年前に開店したということだった。

その日、中心街のある居酒屋のチェーン店に、十数人集まった。
初対面のいくらか年上の男性と思われる人達が、お座敷の会場に来ていた。

その当時の話などで場は盛り上がっていた。
少し離れた所にステージがあって、集まった人達はカラオケを歌い始めた。

私の斜め向かいに、見知らぬOBの一人が座っていて、

「何か歌わないの?」

と聞かれた。
近くに座っていた彼が、

「この人は、歌上手いんですよー。」

と、言った。
私は目を見張った。
そんなふうに誉めてくれたけれど、まだ2回だけしか彼は私の歌を聴いたことがないのだ。

「そんな、上手いことないです。」

私は慌てて、撤回した。

「でも、みんな一曲ずつは歌わないといけないんだよ。」

とOBの男性は言う。

私は少し古い曲だけれど、小坂明子の『あなた』をリクエストした。

私の番が回って来た。
歌い始めた。
キーが高くて緊張も手伝って、自分でも呆れてしまう程の下手な歌いぶりだった。

ヤ、ヤバい……。

私は先ほどあんなに誉めてくれた彼に、悪かったなぁとうつ向きながら、渋々と席に戻った。

「え~ん、あがって歌えなかったー、恥ずかしい。」

「身内だけなのに、なんで緊張するの?」

……。
私は絶句した。


二次会は、いつもの洞穴のようなカラオケ店に行った。
私はこのお店が本当に好きになっていた。
去年の暮れもバイトの友人と4、5人で来たこともあった。

また今回も偶然、彼の隣に座れた。
でもウイスキーの水割りを作っている時も、反対の方向を向いて話をしていた。

間もなく注文した料理が運ばれて来た。
私達のテーブルの上に、餃子の大皿が置かれた。

「お腹すいたー。」

と、彼が言った。

「じゃあ、餃子全部食べれば?」

と、思わず言った。

「出たー。
臭くて、話ができんやない。」

言い返された。

"出たー" という言葉が気になった。
私はいつも彼に、そんなにひどいことを言っているのだろうか。

それよりも、よく隣に座れるわりには話し込んだことがない。
一向に親しくなれない原因だろう。
このお店でもみんな次々と歌を歌って、楽しい夜は更けて行った。


ふと腕時計を見ると、23時を過ぎていた。

「ぎゃー、最終バスが行っちゃった!」

「うん、大丈夫なのかな、と思ってたけど。」

「どうしよう。
でも、そういえば、最近ダイヤ改正してるから、もしかしたら大丈夫かも。」

「でも、この時間はないんじゃないの。」

彼はそう言うと、また向こうを向いて他の人達と話を続けた。

仕方がないので、ここのわりと近くで一人暮らしをしている佐野さんの家に泊めてもらうことになった。
彼女には、この前も飲みに行った帰りに泊めてもらって、よくお世話になってしまっている。

仁科さんも今夜は一緒に泊めてもらうことになり、夜中の2時まで結局そのカラオケ店にいた。

佐野さんの家まで彼が一緒に歩いてくれたので、嬉しかった。
彼はアパートに上がらず、階段の所で、

「じゃあ、おやすみなさい。」

と言って、姿を消した。
私はその夜、今日あったいろいろなことが頭を巡り、なかなか寝つけなかった。


いつの間にか春休みになった。
風の噂によると、彼は大学のゼミの仲間と電車で鹿児島県に旅行に行くらしい。
やっぱり春休みも、一緒にどこにも行けないのだと悟った。

私は、短大2年生になった。
今年は就職活動をしなければならないし、それより他大学の編入試験を受けるという目的があった。
そして彼も大学4年生だ。
きっとこの一年で、恋も進路も決まるだろう。


5月に入り、もうずいぶん会ってないな、という矢先に彼はドーナツショップにひょっこり姿を見せた。

どれくらい会えなかったのだろう。
久しぶりに休憩室で二人きりになった。
私は嬉しくて、自然に顔がニヤけていたのだろう。

「なーん、ヘンな人やねー。」

と、言われてしまった。
とにかく顔を見ることができて嬉しかった。


数日後バイトに入っていると、同じ年の井出さんに声をかけられた。
彼女も、私と彼の噂を知っている。
ちなみに彼女はみんなから公認で、この職場にラブラブの彼氏がいる。
いつも微笑ましいぐらい仲がいい。

「佐藤さん、この前河野さんお店に来てね。
ナイターのチケットがあるから、誰か観に行かない?って言ってたから、佐藤さんを誘ってあげれば、って私言っといたの。
そのうち、連絡して来るかもよ。」

と、言われた。

嬉しいけれど、冗談のように信じ難い。

「えっ、そんな、嘘でしょ。」

「ホントって。
たしか、今度の水曜日だったと思う。
私に連絡あったら、知らせるから。
本当は、最初から佐藤さんを誘いたかったんじゃない?」

「そんなこと、ないでしょ!?」

いったい何が起きたのだろう。
あまりにも唐突な話に、私は飲み込めなかった。

あの河野さんと一緒にナイター?
まるでデートじゃない!?

しかし、それが現実となった。
そのナイターの前日、ドーナツショップに行ってみると、私のタイムカードの所に井出さんからの手紙が挟んであった。

『 佐藤さんへ

昨日TELLしたんだけど、まだ帰ってなかったので。
河野さんからの伝言を伝えます。
14日の野球は、佐藤さんを誘います。
よって14日、PM6時に大濠公園の地下鉄の改札口の近くの売店の所で待ってて下さい。
とのことです。
詳しく知りたかったら、河野さんか私にTELL下さい。ねっ。
それと、昨日河野さんは朝7時にお店に登場したそうです。
じゃね。あんまりにやけ過ぎずに、しっかりセールスすること。Bye-Bye

            井出さんより 』

という内容だった。

本当に明日誘ってくれるらしい。
しかも、かなりの野球オンチの私を。
そして井出さんが神様のように思えた。

デートというのは、思い起こせば高校生の時に4人でグループデートというのはあった。
友人の彼氏が友人を連れ来るので、私が誘われたものだった。
なので、二人でのデートは初めてになる。

夏のドライブの時、彼に相当プロ野球に疎いと思われた私は、今夜テレビで放送されているナイター中継を観ることにした。

◯◯対△△のゲームだった。
明日、野球場でこのゲームを目の前で彼と観ているんだなぁ、と思いながらテレビ画面を見つめていた。

ちょうど21時頃、電話が鳴った。
ひょっとして……と予感が走った。

「はい、佐藤です。」

胸がドキドキしながら、受話器を取った。

「夜分恐れ入ります。
河野という者ですが、夏子さんいらっしゃいますか?」

やはり彼だった。

「私ですけど……。」

「あ、佐藤さん?
井出さんから話聞いてる?」

「はい。
明日ですね。
ほんとに私、行っていいんですか?」

「うん。
それで、6時に待ち合わせって言っといたけど、6時に試合が始まるから、5時半にしようと思って電話かけたんだ。」

「5時半ですね。
わかりました。
今、テレビで野球観てたんです。」

「ほんと?
じゃあ、明日。
いちおう指定席だから。」

「ありがとう。
じゃあ、おやすみなさい。」

電話を切った。
電話までもしてくれて、緊張感が更に高まっていくのがわかった。


翌日バイトが早番で、早朝7時から入っていた。
ただ、雨が少しポツポツと降っていたので、セールスをしながら窓を眺めては心配がよぎった。

「大丈夫かしら、こんな天気で……。」

「これくらいの雨だったら、普通はあるよ。
心配しなさんな。」

一緒にバイトに入っている友人の言葉を信じて、ようやく正午になって仕事が終わった。

「さぁ、いよいよね。
頑張っておいでよ。」

「うん。
じゃあね、お疲れ様。」

私はお店を後にした。
空は雲っていたけれど、どうにか雨は止んでくれたらしい。
毎週水曜日は、授業を入れていなくて休みなので、いったん家に帰ることにした。

数日前から考えていた服を用意して、観戦の為にオペラグラスも持って行くことにした。
茶色地に細かい花柄の、ノースリーブトップスとスカートのセットアップと、薄めの紺色地に白のドット柄のアウターを選んだ。
朝早かったせいと、緊張のせいか少し眠くなってきたので、ベッドに横になった。

どのくらい経ったのだろうか。
ふと、時計を見ると16時半を過ぎていた。

「えーっ、うそでしょー!!」

こんな大切な日に、もうメイクを直す時間の余裕もない。
急いで出かける支度をして、家を飛び出した。

バスと地下鉄の乗り合わせが悪ければ、待ち合わせの時間には間に合いそうにない。
地下鉄に乗り換えて計算してみると、もうその時点で10分は確実に遅れることがわかった。

あーあ、こんな大事な時に、寝過ごしてしまうなんて……!!

急いで地下鉄を降りて改札口を出ると、正面の柱に背をもたれて、腕を組んでいる彼が待っていた。

「すいません、遅れてしまって。
寝過ごしちゃったんです、待ちました?」

「あと10分遅かったら、一人で行ってたかもしれんよ。」

彼は少し怒った口調で言った。

「さっ、行こう。」

早足で歩き始めた。

駅の階段を登って地上へ出ると、二人の姿が並んで歩道に影を落としている。
天気はどうにか、そこそこに回復していた。

「よかった、昨夜から天気が悪かったから、中止になったらどうしようと思ってたんです。」

「まぁ、だいたい予想してたけどね。」

野球場の外堀を歩いていると、彼はポケットから封筒に入ったチケットを取り出して、一枚を私に渡した。

「えっ、指定席で金額が書いてある。
いいんですか、こんなに高いチケット?」

「ああ、親父の会社のつてで手に入ったから。
ホームランとか出ても、あんまりキャーキャー騒がんでよ。」

どうも彼は、私のことを少し子供扱いする傾向がある。

「えーと、C―45。ここら辺かな。」

座席は、一塁側の内野席だった。
ゲームが始まった。

「わー、いるいる。本物よ。
あれ、◯選手じゃない?」

「うん。
こうして見ると、やっぱりピッチャーの球、速いね。」

「あ、私オペラグラス持って来てるんです。
見ます?」

「ああ、持ってきたの。」

ヒットが出る度に、観客席からどよめきのような歓声が上がった。
ゲームは、どちらのチームも三振や打ち上げを取って、早いテンポで進んでいった。
しばらく両チームとも点が入らなかった。

「◯◯に勝ってほしいな。
喉が乾いちゃった。
ジュース飲みませんか?」

「ああ、いい。」

「そう。私、買いますよ。」

私は販売員からオレンジジュースを購入した。
彼はとりつかれたように、ゲームの進行を見守っていた。

しばらくして、フレンチドッグの販売員が近くにやって来た。

「あれ食べませんか?」

「うん、食べようか。」

二人とも購入した。

彼は食べ終わると、私が持っていた空になった飲み物の紙コップに棒をカランと入れた。
相変わらず彼は、グラウンドから視線を離さなかった。
本当に野球が好きなのだろう。

辺りはもうすっかり暗くなり、大きな照明塔の明かりが、グラウンドを眩しく浮き上がらせていた。
風が強く吹いた。
野球場の向こうに見える木々も揺らいでいる。


ゲームは、3対1で◯◯が勝った結果となった。

「よかった、◯◯が勝って。」

「さ、そろそろ出ようか。」

「えっ、もう出るんですか?
ヒーローインタビューないのかな。」

「人の流れってものがあるんだから。
どこかでメシでも食おうか。
思ったより早く試合終わったね。」

時計を見ると20時半だった。
彼は速やかにイスから立ち上った。

私は座ったまま、遠くを見つめている彼をさりげなく見上げた。
下から見てもやっぱりカッコいい。
性格はまだまだ謎があるけど、やっぱり私は好きなんだろう。

私も立ち上って、人に押されながら一緒に前方に進んだ。
しばらくして彼が側にいないのに気づいて、キョロキョロ探した。

ここで離れてしまったら、もう一人で帰るしかなくなるの!?

私は焦って思わず立ち止まった。
はっと気づくと、すぐ目の前に彼が立っていた。

人混みに押されて、自分の顔が少し彼の胸に触れて私は戸惑った。
身動きができず、一向にそのまま進めない。

「グラウンドでも見ようか。」

彼が静かに言った。

「キレイですね。」

少しの間、二人肩を並べてグラウンドを見下ろした。

ようやく人々が前に進み始めた。
同時に私達も歩き始めた。

不意に私の右手を、彼が握った。
私は咄嗟に自分の手を見つめた。

「迷子になったら、いけないから。」

私は驚きのあまり、すぐに口が動かなかった。
ようやく彼の手の温かさが実感できて言った。

「迷子になるとはいえ、男の人と手をつなぐのは初めて。」

「ごめんね。」

いったい、このシチュエーションは!?

手をつないだまま、建物の階段を降りて行った。
すると途中、後ろ辺りにいたおじさんに、

「今の若い子は……。」

という、冷やかしとも言える言葉が聞こえた。
野球場を出てすぐの所で、彼は静かに手を離した。
私は、

もう、あのデリカシーのないおじさん……!!

と胸の中でぼやいた。

「ここ、掴まっていいよ。」

彼の指すところを見た。
今夜彼が着ている、薄緑色のトップスの裾だった。

目を丸くした私だった。
天にも舞い上がる気持ちだけれど、今夜は一体どうなっているのだろう。

初めての飲み会では、あんなに冷たかったのに。
嫌でもまだ頭をよぎる。
思考が追いつかない。

「伸びたらごめんね。」

彼のトップスを引っ張ってみた。
でも、なぜかすぐ手をそっと離してしまった。


大濠公園まで歩いた。
この公園は、街の中心の中で最も大きな公園だ。
大きな池の周りはジョギングする人も多く、一周は約2キロある。
池の一角の昔からあるレストランに入った。

私は食事ではなくブルーベリーパフェを、彼はカレーライスを注文した。
横を見ると、窓には向こうに広がる暗い広い池と、反射した私達二人の姿が映っている。

やがて注文した物が運ばれて来た。
彼はやはり食べるのが早かった。
食べ終わった後にテーブルの上に、福神漬けとらっきょうのビンがセットで置いてあるのに気づいた。

「一緒に食べられんかった。」

「バカねー。」

と、言ってしまった。

食事を済ませた彼の目線が気になって、なかなかパフェが無くならなかった。

レストランを出てバス停へ向かった。
彼はこの後、友人と会う約束があると言う。

ドーナツショップのある最寄りのバス停まで、一緒にバスに乗ることになった。
後ろの二人席に並んで座った。
今日は次々と驚きのシチュエーションが続く。

「本当は家まで送ってあげたいけど、バイク置いて来てるから。」

私はこんな大切な日に、この後彼が他の約束をしていたことに内心疑問を持った。

私なんか胸がいっぱいで、このまま家に帰っても余韻が覚めないだろうと思っているのに……。

「そんなこと、いいんですよ。
今日は楽しかったです、誘ってくれてありがとう。」

意地を張って、お礼を言った。

「じゃあ。」

彼はバスを降りた。

私はそのまま、家に向かった。
それでも、やはり今日のことは夢を見ているようだった。

井出さんが言ってくれたおかげで、私を誘ってくれたみたいだけれど、手をつないで歩けるなんて思ってもみなかった。

彼と出会って、もうすぐ一年が経とうとしているけれど、何度も失望して今日のような日が来るとは思っていなかった。

なんか、今日だけは恋人同士のようなかんじだったのかな……。

私はこの先何があっても、好きな人とつないだ右手がある限り勇気が出るような気がした。


次の日の午後バイトに行くと、井出さんも一緒だった。

「佐藤さん、昨日どうだった?
楽しかった?
河野さん、今朝お店に来てたってよ。
マージャン帰りだったってよ。」

「マージャン……!?
そう、マージャンの約束してたの。」

「うん。
徹夜したんじゃない。
それで、どうだったの?」

そういえば、彼があまりに家にいることがなくて、つかまらないので、母親がお店に電話で居場所を訪ねてきたことがあったと聞いたことがある。
かなりの、良く言えばアウトドア派、悪く言えば遊び人なのだろうか。

「あのね。
手をつないでしまった。」

「えーっ!!
手をつないだー!?
すごーい!!」

またその日から、店内で噂になってしまったのは言うまでもない。

でも、私はまだ昨日の中から歩き出すことができないままでいる。





























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