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白と黒、日常と非日常。『ケダモノ202』

東雲あずささん出演舞台『ケダモノ202』

話の中で時間軸が何度も前後することもあり、理解が追いつかない今回の演目

脚本・福井しゅんや氏の意図は何処にあるのか

観劇前に、氏がマスメディアの影響力について語っている記事を読んでいたにも関わらず、4月15日の初見ではその部分を見つけることもできなかった

それよりも枕木が過去に女子からいじめを受けていたという設定の印象が強烈に残り、並行して観劇していた『煙詰』と重なる部分があったので、その点を抽出して先に記事を書いた

枕木の次に出てきた感想は、「真人間はいるのか?」であった

当初は東雲さんの演じる千冬と、中川夏海さんの演じる泉奈くらいしか見当たらない気がしていたのだが、白魔術の話を真剣に聞いてしまっているあたり、千冬も違うという印象になった

配信を購入し復習し、22日の大千穐楽を現場で観劇し、また配信で復習することで、漸く何か見えてきたような印象である

よくよく見直してみたら、香依が序盤「でっち上げでも何でも書く」この時点でフラグは既に立っていた

枕木の婦女暴行は事実なのだが、更に罪を重ねるようけしかけるのが香依というメディア側の人間であったという顛末

何が彼女をそうさせたのか、劇中に登場する『美々須ヶ丘』を見ていない僕には、その繋がりは分からない

ただ、仕事に取り憑かれ、自分が生きていくためには悪事を働いても仕方がないのだという姿勢は、芥川龍之介『羅生門』の老婆と下人のやり取りを想起させた

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

芥川龍之介『羅生門』老婆

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

芥川龍之介『羅生門』下人


香依は人を白から黒へと変える立場から、自分自身が黒になってしまったという皮肉

「自分を殺してでも、人を傷付けてでも仕事をすることが何よりも大切なのか」「生きていくために仕方がなくする悪事は悪いことなのか」という問題提起、倫理観は、読む人それぞれに委ねられるものなのだろう

ただそれは小説や舞台の脚本としては通用しても、現実の世界では通用しないということを、忘れてはならないものである

実際に僕の周囲でも、仕事のために家庭が犠牲になっているというような愚痴を聞くことがある

独身の僕にとっては実感のない言葉だが、自分自身の時間が取れないということはある

何処かへ行きたい、何かしたい

でも平日では非常に難しい

これまでもチャンスを見つけたら早々に上がり、新幹線に乗って飛んでいくことは何回かあった

しかし感じる必要のない罪悪感のようなものを感じたり、また次の日も仕事だという意識は頭の中にあったり、やはり仕事に意識を奪われているようなところはある

そのあたりは以前書いたときから変わっていない

また、仕事をしている自分は本来の自分とは違う人格で、どこか無理をしているのではないかと思っているのも変わっていない

これが僕の日常であり、非日常が入り込んでくる余地も、入り込んできたと意識することもほとんどない

仕事をして、家に帰るという毎日をただ繰り返しているだけ

無趣味で無気力な毎日だった


だがこの半年、観劇という"非日常"を通して"日常"を生きる力を得ることができるようになった

架空の物語である小説を通して何かを考えたり、生かそうとすることと同じだ

特に舞台はその場で生きている人々の力を直に感じられる、現実であり日常なのだ

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