17年目の母の日

今週もまた怒涛の一週間だった。

本当に、年末に近づくにつれて、1日の過ぎるスピードが、1週間が過ぎ去るスピードが、どんどん早くなっていく。

絶対にその日のうちに書きたいし、書こうと思っていたのに。昨日の夜は、リリース作業の翌日で、業後にリモートで帰社があり、そのあと来週までの提出物を提出し、それでもう眠くて力尽きてしまった。(しかもまた電気つけっぱなしで寝ちゃった・・・)


これだけは、どうしても毎年振り返っておきたくて。

人の命のお話になるから、内容は重たいです。苦手な人はすすまないように。


今まで毎年、SNSやこうしたブログや、あるいは日記に毎回ちゃんと書いていたわけではないけど、毎年の12月18日、母親の命日には、お仏壇に手を合わせたり、こうして振り返ったりしている。


少し前の投稿でも書いたけど、小6の時に母親が病気で亡くなった。癌だった。子宮頚がんで、途中転移したりもしていた。詳しいことはあまりよく覚えていない。

亡くなったという現実は、頭の中で事実としては理解していても、その頃の私にとっては全く実感が沸かなかった。正直、悲しいというよりもボーッとしていたし、涙すら出てこなくて、泣くこともなかった。

一人でいるときに、母親のことを考えて、色々考えて泣こうとしたこともあったけど、ほとんど泣くことはなかったと思う。


母親が亡くなった翌年の4月、中学に上がり、環境と人が変わって、不安だらけで。昔から人間関係がとても苦手だったから、馴染めるかなとか、浮かないかなとか頭の中はそんな想いでいっぱいだった。

女子校だから女子しかいないし、大体みんな仲のいい者同士、早いうちからグループを作っていったり、3人とかの奇数で固まっていたり、あるいは4人以上のグループでいたりする。そんな人達の中で、自分とタイプが近そうな、受け入れてくれそうな人達を探して、声をかけ、仲良くしようと馴染む努力をする。

私自身、女子校の6年間でそんなにいい想い出はないし、(正直女子校は嫌いだし)、一番平和だった中3の頃を除けば、それ以外の2年間の中学時代は、まあ色々あった。

人間関係でいざこざがあったり、ハブられたり、学校もそんなに好きじゃなかったから行きたくないな~と思うことは結構あったけど、不登校とかになりたくなかったし、なにより親に迷惑をかけたくなかったし、行きたくなくてサボれば父親から注意されたから、なんとか行ってるようなことも沢山あった。

もう10年以上も前のことだし、母親が亡くなってから間もなかったこともあり、気持ちの整理もついていなかったと思う。その頃の父親なんかは相当やつれていて酷かったし。気持ちが落ち着いてくるまで数年はかかっていた。父がそんな状態なのを分かっていたから、私は人間関係の悩み以外、何かあっても話すことは少なかったかもしれない。元々、周りに相談したり打ち明けたりすることがとても苦手で、全部自分で考えて判断して自己完結してしまいやすいし、かなり一人で抱え込む性格だから、その頃から拍車がかかっていたかもしれない。


そんな私の中学時代は、母親の死を受けて、自分の価値観は大きな影響を受けていた。

中学の頃の私は、"母親が早く亡くなってしまったのに、今生きている私だけが幸せになるなんて、間違っている"という、今思えばびっくりするような価値観を持っていた。

だから、自ら笑うことをやめてしまった。

笑わなくなったことで父親に「あんた能面みたいな顔してるよ。ちょっとは笑ったら?」と言われたりしたことも何度もあったし、ずっと笑わずにムスっとしていて笑わないことで怖がられて、周りからどんどん人が離れていってしまったり。

この頃からだったかな、"笑うこと"が苦手になったのは。人に笑顔を見せること、人前で笑うことに抵抗を感じてしまうようになったのは。

あと、今は歯並び綺麗になってるけど、小さい頃からめちゃくちゃ歯並びが悪い上に、笑うときに歯茎を出して笑う自分の笑い方が好きじゃなかったのも1つの理由かもしれない。元々父親に似て歯が小さい分、笑った時に歯茎の方がかなり広く見えてしまうような自分の笑い方が苦手だった。


そんな、人間関係で散々悩んで色々あった中学時代が終わり、そのまま高校に上がった。高校1年の4月、学校の内科検診のX線でひっかかって、先生に呼び出され、封筒に入った小さなフィルムの写真を渡されて。

「1ヶ月以内に早めに病院に行って検査を受けてください」みたいな感じのことを言われた。

父に話して、「病院行っておいで」と言われたけど、1人で病院に行くのが怖くて、渡されたフィルムもずっとそのまま数ヶ月、自分の机に置いてあったままだった。


ただ、それから数ヶ月後、普通に生活している中で、突然、胸部の圧迫感と息苦しさを感じるようになって。それが、何日か続いたり、治まったりして。家族に話したら心配されたけど、そのあと一旦治まったから、様子を見ることにした。

でも、そのあとまたしばらくして、また急に苦しくなりだして。再び胸部の圧迫感と、息苦しさを感じるようになった。父に話したら、「病院行っておいで。」と言われた。でも、それでもまだ、1人では行く勇気がなくて行けなくて。


そのあとしばらくして、また苦しくなった。

そんな時に父親から、「そういえば、以前から胸の辺りに圧迫感があるとか、息苦しいとか言ってるし、心配だから病院行くか?」と聞かれて。その日は学校行事があったけど、お休みさせてもらって、生前に母も行った病院を受診し、指定された病院にCT検査をしに行った。

その後、CT結果を持っていったところ、「かなり危ない状態なので、すぐに検査入院して下さい」みたいなことを言われたんだっけ。もう覚えていないけど。

父親からは、「何度か話してくれてたのに、もっと早めに病院に連れて行ってあげなくて、気付けなくてごめんな。」と言われた。


その後、約1週間の検査入院を経て、本院へと入院。病気は、母親と同じ、癌だった。ただ、種類は全然違うもので、病名は"ホジキンリンパ腫(悪性リンパ腫)"という、血液系の癌だった。

本院へと転院した後、まずは適した治療法の確立のため、人生初の約1ヶ月の入院へ。あ、いや、人生初ではなかったかも。忘れてしまった。途中、年末年始のみ外泊の許可をもらって、その後は再び病院へ。

12月から、翌年3月までは休学し、治療に専念した。


その後、4月からはなんとか学年を上がらせてもらえたはいいが、全然関わったことのない人達が沢山いる、全然違うクラスに変わってしまい。雰囲気もそれまでとまったく違ってて、授業中も基本ずっとおしゃべりしてて騒がしい、というか基本常に騒がしくて、そんなクラスが大嫌いだった。

まあ、このあと卒業までの2年間、このクラスで耐え続けることになるんだけど。

復学してからは、3週間に1回、金曜日に早退して病院に行き、日帰りでの抗癌剤治療を続けた。2~3時間くらいして治療が終わって、父が仕事帰りに迎えに来てくれて、一緒に帰って。

それを、決められた回数続けるのは、通学後に通院するのは、本当に気が向かなくて憂鬱だった。一度の日帰り通院を乗りこえ、白血球の数値が上がって来た頃、また3週間後の通院までは、いつもあっという間だった。


でも、病院に向かう足でいつも、"私はちゃんと治してママの分まで長生きするんだ"

"治療ができる環境に恵まれているだけ、ありがたいことなんだ。だから、頑張らなくちゃ。ちゃんと治すんだ。"

"今も、病気になっても治療ができずに亡くなっていく人達が世界中に沢山いる。治療ができるのはラッキーなこと。その人達の分まで頑張ろう。"

とか、スケールの大きなことやポジティブなことを考えては、頭の中にぽんぽんと浮かぶネガティブ思考を打ち消していた。

"一瞬でもネガティブになったら、癌に負けちゃうんじゃないか"

そう思うと、怖くて怖くて仕方なかったから。


何ヵ月かに渡って日帰りでの治療を続けていたある時から、治療のための点滴の針が腕に刺せなくなって。

投薬治療を繰り返し続けていると、使った血管は次第に固くなっていくため、針が刺せなくなってしまう。私は昔から血管が細いこともあり、腕に針を刺すのは毎回苦労した。

それが理由で、途中からカテーテルを使用して投薬治療を続けることになり、1泊して翌朝父が車で迎えに来てくれて帰宅するようになった。

全ての投薬治療が終わったあと、また造影剤を使ったCTをとり、まだ腫瘍が無くなりきらなかったため、放射線治療を追加でやることに。

それが全て終わったあと、また造影剤を使ったCTをとり、高3の夏、主治医から寛解の宣告を受けた。


約1年半の闘病生活は、本当に長かった。

でも、病気になったことによる一番の大きな変化は、私自身の価値観の変化だったと思う。

中学の時は"母親が早く亡くなってしまったのに、今生きている私だけが幸せになるなんて、間違っている"と思っていたのが、

"母親の分まで元気に長生きする。ママの分まで笑顔で幸せになる。"に変化したからだ。


あと、治療を始めてしばらくたった頃、主治医の診察時にこんな感じのことを言われた。

"あのねぇ、そういえば、今だから言える事なんだけど、去年のあのCTみた時、既にかなり進行してたのね。胸部の圧迫感があって息苦しいと言ってたけど、あれは、腫瘍ができた部位がちょうど心臓の裏側で、腫瘍が大きくなって気管を圧迫していたからなんだよね。

もし、もう少し来るのが遅かったら、もし年明けとかになってたら、窒息死してたかもしれない。だから、本当に急ぎだったし、間に合って良かった。"


本当に、ギリギリだったんだなぁ。。

そして、検査入院が母親の命日だったこともあり、多分、このままだと命が危ない!って思ったから、報せてくれたんじゃないかなあ、と思った。

あのタイミングで病院に行かなければ、今の私は確実にいなかったから。

きっと、ママやご先祖様達が助けてくれたんだろうなって思ってる。

"あなたはまだ生きなくちゃダメだよ、あなたにはまだやるべきことがあるよ。"って。

私は、生かされたんだ。

今この瞬間もきっと、生かされてるんだ。

だから、今生きていること、命あることに感謝しよう。


今年は、世界中コロナで、毎日信じられないくらいの人達が命を落としていって。

今年、私が一番衝撃を受けたニュースは、志村けんさんの死だった。仕事でトイレ休憩中にニュースを見て、しばらく呆然としてしまった。志村どうぶつ園、面白くて大好きだったのに。バカ殿も、好きだったのに。

人の命って、こんなにも儚いものなんだなって。こんなにも呆気ないものなんだなって。

岡江久美子さんの死も、ショックだった。はなまるマーケットは昔見ていたけど、正直あまり記憶になくて。ほとんど覚えていなくて。でも、振り返りを見ていて、"どうしてこんなに素敵な人が…"って、すんごく悲しくなって。

あとは、好きな女優さんの1人だった、竹内結子さんのニュースや、三浦春馬さんのニュースもかなり衝撃的だった。

今年は特に、"生と死"に触れる機会や、考えさせられる機会がとても多くて。

10月頃に、インスタでフォローしている方のご家族のエピソードで、命に関する話を読んでから、そういえば今年は法事だよな~とか、母親のこととか、父方の祖父のこととか、色々考えてしまって。

1人、部屋で何度も泣いた。

インスタのお話をうっかり夜寝る前に読んでしまった時には、色々な想いが込み上げてきて、次の日仕事だというのに寝付けなくなってしまったり。

思えば10月頃からずっと、人の命のことについて色々考えていた。

命って、本当に儚くて尊いし、人間いつ何が起こるかなんて分からないなあって。

だからこそ、自分のことを本当にちゃんと大切に、日々を生きていけたらって。

こんな身体なのに、中学?高校?くらいからずっと、夜中遅くまで起きてしまうのが完全に癖になっているのだ。(色々書いておきながら我ながら情けないというか、恥ずかしいというか)

ほんとに、この20代のうちになんとかしなきゃだ。なんとかしたい、睡眠のこと。


自分のことを大切にした上で、周りの大切な人達のことも、大切にできる自分でありたい。

まだ、まったくできてない。。と思う。

でも、人の命は有限。いつ、タイムリミットがきてもおかしくはない。

それまでに、どれだけ実践できるか、実際に行動できるか。結局、それが全てなんだ。


長くなったけど、ショッキングなお話だったと思うけど、読んでくれた人には、想いが伝わるといいな。


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