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Last Dance / 創作

我が家にはピアノがある。私が生まれてから24年間、ずっと。私が生まれるよりもはるか昔から、立て付けの悪い場所に放り出されたままになっているそれは、10歳上の姉の為に招き入れられたものだった。一番古い記憶を思い返す。いつの日のことかなんて、もう覚えていないけれども、床に座り込んだ私の頭とピアノ椅子の座面が同じ高さであったことから辛うじて、幼子が見た景色であることが分かる。学校から帰るとよく、姉がピアノに向かっていた。スコット・ジョプリンのエンターテイナーが響く夜。白鍵の上で軽やかに飛び跳ねるリズミカルな旋律というのは、そこはかとなく華やかだった。それから時間も経たずして、姉はピアノを弾くことを辞めている。定期的に大きく口を開けていたピアノはいくら待っても布がかけられたままだった。音というのは生命の換言であると思っている。エンターテイナーではないにしろ、何かしらの音楽が響いている時、家の中では確かに凡庸な人間活動とは異なるものがめきめきと呼吸をしているような感覚があった。その息吹が止まる様はあまりにも突然で、蝋燭の上に灯った弱々しい火炎がひと息で吹き消されるようだった。閉ざされた鍵盤蓋は待てど暮らせど開くこともなければ、白権と黒鍵が唄うことすらもなくなった。

奏者のいない楽器は、人の手が入らないことを悟ると、目にも止まらぬ早さで朽ちていってしまう。親戚の家にかつて置いてあったピアノに至っては、ピアノ講師を家業としていた叔母が引退してから、10年ばかし触れられぬまま放置されていた。順繰りに鍵盤をさらうと、虚弱な叔母によく似た音の歪みが生じているのが知識のない私にも理解できるほどだった。  

年に1回。毎年欠かすことなく、母は調律師を家に招いた。邪魔になるといけない、そんな理由から、時期が訪れると決まって私は外に出ることを命じられた。その言いつけを守って、近所の河原で小石を拾い、神社へ赴いて昆虫を眺めるなどしながら、ひたすらに時間を潰す。時折自宅へ踵を返しては、出窓越しに調律師が爪弾くトリルの音を聴くなりまだか、まだか、と作業が終わるのを待ち続けていた。
たった一度だけ、外へ出かけることすらも忘れてソファで昼寝をしたことがある。グリッサンドの弾ける音で目を覚まし、それからしばらく、師の背中越しに作業を見つめた。始まりの挨拶と終わりの挨拶を除いて、全くと言っていいほど口を開かない彼の作業っぷりは見事なもので、一瞬、二瞬の隙もなく裸になっていく躯体を眺めながら、正しい方へ帰っていく音の粒を噛む。再び家中にピアノの音が響き渡る。四散した音符の連なりがリビングの扉に共鳴すると、鍵盤が深く沈む度にピシピシと音を立てる。その時ばかりは、家が少しだけ広くなったような気がすると共に、ピアノと睨み合いを繰り広げる姉の背中が見えるような気がした。

時計にほんの一瞬目をやると、既に4時半になっていた。やや開いたカーテンの隙間から、青白い光が指している。目を瞑っても眠れはしない、かといって何をする訳でも無いまま、夜中をひた走ってここまで来てしまった。ソファのアウトラインに沿うように身体が痛み、強ばる。何とかその身を起こした途端に、ピアノが視界に入った。それ以上の説明は付かないが、目が合ったような気がした。ふらふらとピアノの方に近付くと、そのままへたり込むように椅子に腰を吸える。薄いベールを丁寧に取り払い、キーカバーを外して初めて露わになる鍵盤は、少し熟れたような飴色をしていた。調律師の真似をして、お粗末なグリッサンドに取り掛かる。音の粒が不均一な音の戯れを暫し楽しんでみるも一向に上手くなる兆しは見えない。こうして曲にもならない音を響かせていると改めて、奏者不在の状況を不憫に思った。だがしかし、今から自分が練習をし始めたところで、まともに弾けるようにもならないだろう。ただ鍵盤の端から端までを軽く指先であしらう、ただそれだけでいい。


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