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Hanamuke. / 創作

知らなければ良かったことなんて生まれてから幾つもあるし、私は尽く執着をするタイプだから 物心がついた頃からのそれは凡そ記憶の中に留めている。20数年分の蓄積。その何れの軍を高高と超えてしまうくらいに知らなければ良かったと思っているのが、「先輩の結婚」だった。画面いっぱいに写っている彼女はとても幸せそうで、婚姻届の脇に据えてある指輪が二つに折り重なっている。「何ヶ月も悩んでやっと購入を決意した」という文面には、カラットにも100本の薔薇にさえ勝てないほどの幸せと、煌めきが込められている。

片田舎から都会へ飛び立ち、いわゆるシティーボーイになった私。たった4年の命だったけれど、十分に楽しかったし、充足という言葉が似合うような4年間だったと心の底から思っている。ただ今思えば、人と会うという時に「忙しいから」という魔法を使うことができるようになったのもこの頃からで、それを含めて思い返せば結構最悪な時間だったのかもしれない。遥か昔に私が好いていた彼女もまた、その魔法を吐いて私の誘いをふらりとかわしていたし、私自身もそれを信じきっていたけれど、彼女のアーカイブに貼り付けられた二年前の記憶を辿る限りは、もっと会う時間があったのではないかと思っている。ただ私が会いたいと思わせるような分布には居なかったというだけで、「忙しい」という三文字に消されてしまうほどの存在だったというだけ。納得出来るかどうか、ということは別にして、1年に及ぶやり取りを丸め込むことが出来る。もう、大人だから。

SNSのコメント欄に吊り下げられる形の簡素な言葉はあまり好きではなかった。だから私は、敢えて私は個人メッセージを使って、祝いの連絡を送った。既読表示の速さを見るなり、先の記憶が泡のように湧いてくる。会えなくても連絡だけはこまめに返してくれる、そんな人だった。かえってそれが、私の好意を増幅させていたと思う。告白だってした。公園の丸ベンチで思いの丈をぶつけたあの日から、返事も特に無いまま今を迎えている。プロポーズの場所らしいイルミネーションが繁茂するような場所と比べてみれば、公園の片隅に位置するベンチなんてくだらないものでしか無かった。

「ありがとう!幸せになるね」という言葉を、どのような面持ちで打ち込んでいるのか、彼女に会って確かめてみたい。彼は横に居て、彼はそれを見ているのだろうか。ふと脳裏に「この子はね…」と注釈を入れる彼女の顔が過ぎって、勝手に嫌な気持ちになる。幸せを宣言する言葉がふわりふわりと漂って、少しの間、取り留めもない会話が生まれた。" 告白をしたことがあるから " という理由で遠慮がちに返事をする私と、" 告白をされたことがある " けれども溌剌としたリズムを一切崩さない彼女の間には、明らかな心理的距離が生まれている。返信を待つ間にこまめに読み返してみても判断が付くくらいの、明らかな差分、まさに幸せを勝ち取った人間の余裕そのものだった。

白い肌に長い指、キューティクルの健在なクセのない黒髪、二重幅の整った綺麗な目。好いていた場所を挙げればキリは無いし、それなりに物理的な要素もあったけれども、それを超える形で私が好意的に捉えていた部分といえば一人で生きていても絶えず垣間見える余裕さだった。それが今では二人で生きることを前提とした余裕を会得している。遠回しにあの日の思い出もまとめて棄てられてしまっているようで、いたいけな私はこの世の誰よりも可哀想だった。

婚姻という絶対に崩すことのできない壁の向こう側に彼女は居る。それでも私は、個人メッセージを送ることでその牙城を崩せるのではないか、と本気で思っていた。しかし、画面越しのやり取りは2年前とて変わらなかったものである。どれだけスクロールをしても余りあるほどの会話を持ってしても、少しだけでも顔を合わせた指折り数えるあの日を持ってしても、私は彼女の心に近付くことすら出来なかった訳だ。考える必要も無いほど、恐ろしいほど単純な答えが出ていた。

おやすみ、というにはまだ早い時間だった。「忙しいから」とは言えなくなった彼女なりの" 一刻も早く会話を切りたい "という意思表示だと思う。もっと話をしましょうよ、と送るところを " 話 " の部分まで打ち切り、長押しで一気に消した。まだ結婚なんてしたくないと笑っていたのも、そう遠い話ではないのに、彼女はすんなりと結婚をしてしまった。2年という時間を使って、結婚という選択を許してしまったのだ。そういう私も話をしたいとせがむ気力も無くなっていた。ここで会話を終わらせてしまえば、この状況を許すことになるのではないか。そう思うと、しばしの躊躇いだって生まれてしまう。でも私は何も送らないまま画面を閉じた。誰も何も言わないけれど、これが最後になるということはよく理解している。その最後に返信を送らなかったことについては、いつしか転機があるのではないかというポジティブな目論みと、私のメッセージに既読がついた状態で幕を引きたくないというわがままの上にある。

全てを許したといっても、前に進んだことにはきっとならない。彼女があいつが苦手だ、と言えば揃って敵になる。味方と言うならばまた同じことをする。彼女があの花が苦手だと言えば、その首を折る。それが愛だと思って来たけれどきっと違う。こうして好きや嫌いを軽んじた私のもとに彼女は来なかった。けれども彼女を投写していた好きか嫌いか、善か悪かという判別だけが、無意味に私の中に残っている。これは本当の私なのか、と言われるとはっきりと「うん」とは言い難かった。

気休め程度に付け放しの状態だったテレビでは天気予報がやっている。秋雨前線が近付いている。もう秋ですね、と笑ったキャスターの顔そのものが彼女によく似ている気がした。テレビを黙って消す。消してしまえば秋も来ないような気がした。テレビ台の脇をもたれかかるギターを避けて、電源まで抜いた。
高くて買えなかったブランドギターの代わりに、廉価版のギターを買った。買って満足、今ではテレビの横で埃に包まれている。結局私は似ていればそれなりにどうでも良かった。これはもうギターに限った話でも無くなった。さよならベイビー、彼女に似ているなら今の私は誰でも良かった。
アダルトビデオのサイトを漁って、必死に探す彼女の面影。せっかくだからと、ティッシュを一枚余分に引き上げた。ちょっとブロンドだけど、この子でいいか。という見繕いをして再生ボタンに手を伸ばす。一気に力が抜けた。ここまで最愛だったしこの瞬間は最低だ。知らないことも振らないことも、またが無いことも、全部全部サイテーだ。サイテーだった。


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