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余熱 / 創作

西向きの窓、カーテンの隙間から月の光が入る、極めて中途半端な時間に布団に潜る。夏も終わりを告げた涼しい夜、開け放しの窓にピタリと閉まった網戸、風の揺れも手伝ってカーテンが踊る度、天井の青色がふらふらと流れる。午前3時、月が南中を越えて部屋に光を投げ掛けるのはいつもこの時間だった。早く起きて洗濯物を干しても、昼のうちは太陽を見ることが出来ないから、夕刻が近付いた頃にふらりと降りてくる太陽を、洗濯物を取り込みながらいつも呑気に眺めていた。どれだけ早く帰って来ても、眠りにつくのはいつもこの時間だった。彼がふらりとバイトから帰ってくると、私の部屋は初めて火を手に入れたようにぼうっと明るくなる。寝支度をする彼を待っているのも、決まってこの時間だった。全てにおいていつも通りの時間の流れがある、月陽が流れて、落ちていく。いつもと違うことは、あなたがもう居ないことだけだった。

コンタクトが外されて混濁してしまった視界を携えたまま、おもむろに抱き枕を探す自分が情けなくなって辞めてしまった。
死ぬまで一生愛される予定だった、隣に居るはずであった彼に別れを告げられてしまってから7日が経とうとしている。毎晩抱き寄せられ、また抱き寄せていた熱源が無くなったことで眠れない夜が続く。彼は寝付きの良い人だったから、決まって先に眠っていた。こうしている間にもきっと彼は深い眠りについているのだと思うと、悔しくて堪らない。ベッドの脇に据えられたゴミ箱から頭を覗かせた物件のチラシと目が合った。瞼が凄まじい勢いで熱くなる。けれども不思議と涙は出なかった。在りし日よりも綺麗になってしまった部屋を眺めて、あそこにはあれがあった、これがあった、などと考えている自分が惨めで仕方が無い。何としても私は私を愛したいというのに、今の私は私を徹底的に傷付けていた。

幼少の頃から私を可愛がってくれた近所の老婦人が亡くなって、いざその家が壊されるという時に、同じ感覚が私の身体を包んでいたことをよく覚えている。
物心が着き始めた私はショベルカーが家屋を食い散らかしていくのを、終いまで見つめていた。芯柱を食らうバリバリという音はこれまでの記憶を食らう音でもある。少しずつ地上が綺麗になっていく様が、まるで私にとどめを刺そうと少しづつ迫ってくる。そう考えると怖くて怖くて泣いてしまった。

最後に会う日をカレンダーにピン留めしてから、あと何回、彼と会えるかを数えて回っていた。共有カレンダーが私だけになっても、私はそれを使い続けると決めた。置いていった衣服を畳みながら、どういう顔をして会えばいいのかを考えた。彼が好きなアイスを買ってきても、半額の惣菜を買ってきて料理を作っても、あなたはもう居ない。そうなっても尚、私の中で蠢いているのはあなたのことだけだった。

「何か色々分かんなくなっちゃったんだよね」
という雑駁な台詞を吐かれた私だって、どうしたら良いか分からなくなってしまった。俺だって辛いんだ、と少しでも悲劇のヒロインという立ち位置をせしめようとするあなたの横っ面を殴ってやれば良かったと今になって思う。判然としない別れの動機に私は自分でも驚く程に従順だった。というか、これまでも私は全てにおいて従順だったのかもしれない。馬鹿らしかった、どうでもいいよ、と投げ出すほど私は強くないし、弱くない。

ライターを探すより前に煙草を取り出す癖があった彼はよく、ソフトボックスから口先で器用に一本だけ煙草を取り出しては、ポケットをまさぐってライターを探していた。一度だけ、「女とライターってすぐどっかいっちゃう」とおどけてみせたことがある。
「どこにもいかないよ」と返してからというもの、彼と外へ出る時は決まってコートの右ポケットにライターを入れて持ち歩くようになった。ポケットに忍ばせておくという習慣は彼が困らないようにという思いはもちろんのこと、私だって何処へもいかないというまじないのような意味も持ち合わせていた。でもあなたはもう居ない。

望まなくとも、どれだけ嫌がったにせよ、時間は経つ。起き出せないままに携帯を開く、ロック画面にあなたが居る。
バイトから帰り、エントランスで鍵を探した。時間に余裕をもたせる私としては珍しくギリギリに家を出たためか、左ポケットに入っている筈の鍵が無い。流れるように右ポケットに手を入れると、鍵の他にカチャカチャと音が鳴る。横車の凹凸が指先に触れたことで、それがライターであることを知った。夜の波に押されるように、踵を返して歩いた道を戻り、コンビニへと向かう。彼が居ないのであれば 私が彼になれば良い、なんて考えている私はとんでもなく馬鹿なのかもしれない。何も手にしないまま入口から一直線のレジ前に立つ。いつもの私が止めに入る所をコンビニの音声広告が打ち砕く。震える声を上げながら、「53番」とだけ伝える。私が自ら出している音なのに、自然と彼の声に聞こえる気がしてならなかった。
自動会計機に飲み込まれる硬貨を一瞥してからソフトボックスを手に取る。私が思っている以上に硬く、冷たい箱だった。彼の胸ポケットに入っていた其れはいつも柔らかく、いつも温もっていたのに。私は彼にはなれないし、彼は戻ってこない。

不慣れな手つきで包装のビニルを破り、紙を剥ぐなり、右ポケットのライターでてきぱきと煙草に火を点ける。4階のベランダに冷たい風が雪崩込む。冬の匂いがした。彼の匂いがした。月も太陽も遅れてやってくるこの部屋だ。ああ、来るなという自覚症状、涙が遅れてやってきた。とめどなく溢れて、溢れていく。
別れを切り出された時、一秒として泣けなかった私が居る。少しでも泣いていれば彼はもう少しここに居てくれたのだろうか。

ひとくち吸って、吐く度に彼が出ていってしまうような気がした。咳き込みながら吐き出した煙と共に、頭の奥にこびり付いた記憶の全てが消えてしまうような気がした。ジリジリと燃える音が寒くて仕方がなかった。落ちた火種が街の灯りに溶けていた。南中に差し掛かる月が半分だけ光を零しているのが見えた。

過ぎ行く季、天頂の時、終電の街、いつも通りに、でもあなたはもう居ない。





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