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△乙訓さんぽ△⑤:昔の通学路は、実は6連アーチ鉄道橋という土木遺産

私にとっては、実家から最寄り駅までのおなじみの光景をめぐる街歩きですが、実はそこにはとても見どころが満載だった(笑)、という7月に帰省した際の記録を紹介しています。前回は、国道171号線・名神高速、東海道新幹線、条里制の田んぼと、旧・向日町運転所と言うとても大きな車両基地を紹介しました。
(前回の記事はこちら)

今回は、この場所から少し長岡京駅に進んだところにある、実はすごい土木遺産である、七反田架道橋(明治の開業当初から現役のレンガアーチ鉄道橋)を紹介したいと思います。

■まずは、七反田架道橋を目指します。

前回探索で歩いた、JRの車両基地から線路沿いに長岡京駅を目指して南向きに歩いています。そのあたりの地図をまずは見てみたいと思います。

今回探索範囲。古い地図の東海道本線の「道」と「本」の字の間が七反田架道橋。
ちょうどこのあたりに、向日市と長岡京市の市境があるようです。

線路沿いの道は、学生時代までは最寄り駅まで頻繁に通った場所なので、景色を当たり前のように覚えています。地図をよく見ると、この辺りが向日市と長岡京市との境界だったようですね。

市の境界がわかりやすい、Mapionでチェック。府道79号線と線路が交わるのが
七反田架道橋です。向日市側には、田んぼの中にも見知らぬ地名が。
「五位田」「十ヶ坪」など、数字が入った地名が多い。これも条里遺構の一つと聞きます。

長岡京市に入ってすぐのところにある、七反田架道橋。この架道橋の名前などは、条里制に従って名付けられた地名(整然とした区画の番号のようなものを地名につけることがあったそうです)なのでしょうね。それにしても、地図を見る限りでも、向日市は積極的に昔の地名を残してくれています。市のHPにも、地名紹介があります。この中には、田んぼだけで人の住んでいない地名も少なくないはずです。

少し脱線しましたが(笑)、今日の主役である、古い鉄道橋を紹介します。

■堂々としたレンガアーチ橋

出ました!最寄り駅に向かう際にいつも通っていた架道橋です。

やって来ました。東海道本線 七反田架道橋。ご覧いただいてもよくわかる、時代を感じさせるレンガでできたアーチ橋です。その中の2径間を利用して車道が通り、一番大阪方の1径間に歩道が通ります。

手前に水路がある3連アーチもあります

この橋、6連レンガアーチ橋という、とても立派な橋です。これが大阪~向日町までの鉄道開通当時の明治9年(1876年)にもう出来上がっていました。できてから実に146年が経過しています!

当時はまだこんな立派な道路は無かったので、おそらくこんな立派な6連ものアーチ橋は不要だったはず。じゃあアーチ橋は何のためにあったかというと、

「避溢橋」(ひいつきょう)

という橋だったのです。「避溢橋」なんて聞いたことが無い、という方に少し解説。昔、鉄道が開業した際、土地の高低差を克服したい場合の中で、低い土地の中に少し高めに線路を通したい場合は、築堤(盛土)をすることが多いと思います。この場所もそうですが、盛土は長い距離に渡ってつながることになると思います。この場合、もし片側の河川が氾濫して溢れた場合、鉄道の築堤が堤防のような役割を果たしてしまい、結果的に築堤のせいである地区に水が滞留し、河川も溢れる危険性が増します。それを防ぐのが避溢橋。ここを橋にすることで、溜まりそうな水を反対側に逃す役割をしています。なお、こちらのサイトでも、この橋の避溢橋としての役割を紹介されています。

では、架道橋をもう少しよく見てみましょう。

道路としても、鉄道としても現役の架道橋。
真ん中の道路は、避溢橋時代から少し掘り下げたのだとか。
歩道は1段高い所を通過します。かつての通学ルート(笑)。
歩道脇にも水路があります。下部は石積み、上部はレンガ積みです。
ほとんど内巻き補強などされていません。
一番京都方の1スパンには、水路が流れています。少し高い所を流れる水路なので、
恐らく農業用水路なのでしょう。
そのお隣は、何も使われていない区画です。
これは将来道路拡幅計画・・ではなく、昔の避溢橋時代の名残といえます。
横から見たアーチ橋。鉄道の検査通路を追加するための増しコンクリートが施工されています。
大阪方面行の2線分が、レンガアーチです。西側にだけ、船の舳先のような構造があります。
これも避溢橋としての水流を抑制する構造のようです。
隣の京都方面行の線路は、コンクリート橋です。
こちらは耐震補強工事が施されています。
上り線の線路を歩道から見たところ。道路の間だけ耐震補強の
構造が違うのは、施工条件の制約の大きさのせいでしょうか?
上り線のコンクリート橋。こちらも6連アーチと同じスパンで橋が架かっています。
ということは、避溢橋としての機能は現役なのでしょうか?

上り線の部分が線増された時期は、戦前(昭和8年:1933年)のようです。(下記リンクにより、高槻~向日町間の複々線化完成時期を確認。)このコンクリート橋は、当時からのものであれば、すでに約90年が経過した、これも年代物のコンクリート構造物といえます。

こちらは、車両基地に入庫する線路。鋼橋を架けてスパンを飛ばしています。
やはりこちらも、あと2スパン高架橋があります。
入庫線の架道橋の全景です。
七反田橋りょう 1964年の文字があります。

車両基地への入庫線は、昭和39年(1964年)の完成。ここの構造物は、古いアーチ、年代物のコンクリート橋、そしてこの橋の3世代の構造物と言ってもいいのではないかと思います。

西側から見た全景。
少し引いたアングルから。今は避溢橋とはいうものの、すぐ近くまで市街化されています。
近くを流れる小畑川の河川改修も影響していそうです。

ここで、小畑川の浸水想定区域図をご紹介。七反田架道橋がある場所は、小畑川沿いの低い場所。盛土の存在により、浸水想定区域の色も、分断されていることがわかります。もう少し右の名神高速道路の盛土でも、同じ傾向が見られます。盛土構造物は、人工的に浸水想定を変えてしまう力があるので、避溢橋という、人工物による影響を軽減する構造物も場所によっては必要となることがこの絵を見てもわかるのではないでしょうか。

京都府が作成した、小畑川洪水浸水想定区域図による浸水想定。
避溢橋近くは黄色(1m以上)の浸水深です。
避溢橋が無ければ、ここの水は抜けにくいのかもしれませんね・・。

最後に、私が執筆した、下記リンクの土木学会Web情報誌『From DOBOKU』にも、この橋を紹介しています。当時は帰省することができておらず、記事を書いた際も現地の風景を思い出しながらの執筆でした。久しぶりに現地を訪ねて、改めてこの橋のすごさを再認識しました。是非この記事も含め、お読みいただければと思います。

■終わりに

実家と最寄り駅との間でいつも通っていた6連レンガアーチ橋。小さい頃から、駅前に買い物に行く際、自転車で通っていたことを思い出します。地元の橋であるし、古そうだけどそんなにすごいのかな?くらいにしか思っていなかった橋が、2017年度に土木学会選奨土木遺産に選ばれ、え、こんなにすごいの?と再認識したのでした。
地域に残るとても貴重な土木遺産。それが現役の構造物としてしっかり使われているということを、もっと地域の誇りとしてみんなが知ってほしいと思いました。

次回は、長岡京駅周辺を歩きます。乙訓さんぽ、まだまだ続きますのでお楽しみに(笑)。
(続きはこちら)


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