▼北陸への旅▼⑤:北陸新幹線開業に湧く、敦賀へ(前編:敦賀港への廃線跡を歩く)
3月末に訪れた、北陸への旅の記録の続き。前回までは富山県内を回っていました。富山市という場所が、とても興味深い発展を遂げていたことを改めて知ることができました。(前回の記事はこちら)
今回は、富山から「敦賀回り」で東京に戻るルートを用いた北陸の旅の一つのメインイベントとして、3月16日に開通した、北陸新幹線に乗車して敦賀の街を訪れた記録について書きたいと思います。
■北陸新幹線で敦賀駅へ
敦賀駅の乗り換えですが、3階の新幹線ホームから、2階コンコースに行き、1階の在来線特急ホームを目指す、という動線です。正直なところ、そんなにしんどい乗換でないと思ったのは、恐らく旅慣れている身だからでしょうか。
敦賀駅ですが、新幹線と在来線の乗換は、多分そんなに混乱せずにできるのですが・・。恐らく大変なのは、新幹線から、新快速や小浜線の電車に乗り換えようとした場合、だと思います。意外とその案内はわかりにくい感じかもしれません。
■敦賀駅って、実はすごい駅
敦賀駅って、鉄道の世界では、結構すごい場所なのです。敦賀駅が開業したのは、何と1882年(明治15年)のことでした。日本海側の敦賀港駅と琵琶湖畔の長浜駅を結ぶ目的で作られた北陸本線。日本初の鉄道連絡船であった琵琶湖の連絡船を経由し、すでに開業していた大津~大阪の鉄道を介して、日本海と関西を結ぶ輸送経路が作られました。東海道本線が全線開通するよりも早い開業です。
敦賀駅は、開通当時は今の位置には無く、もう少し市街地の中心部に近い、気比神社周辺に初代の駅が作られ、そこからさらに敦賀港(金ヶ崎)駅までまっすぐ線路が引かれました。しかし、福井・金沢方面に線路が延伸された際、この敦賀駅からだとスイッチバックする形になってしまうので、現在の敦賀駅の位置に移転し、新たに敦賀港線もこの駅から分岐する形に変更されました。その敦賀港線、欧亜連絡線の拠点として栄えたりした時期もありましたが、戦時中に旅客輸送が休止され、その後廃止、貨物線として2009年まで営業していましたが、2019年に廃止されました。そのあたりの経緯、こちらのサイトに詳しいですので、是非ご覧ください。
古い文章を探していたら、私の所属する土木学会の「デジタルアーカイブス」にある、土木学会の前身である、工学会が出していた、「工学会誌」の第1号第1刊の1ページが、何と「米原敦賀間鉄道建築景況」という記事!東海道本線の建設に先んじて、長浜~敦賀間の建設に当たり検討している状況が記されています。
■交流電化発祥の地
また、敦賀駅の両側の区間は、急峻な山を越える路線で、北陸本線の旧線がクネクネと山を越えていた難所であり、早くから電化がされた路線です。なので駅前にはこんなものが。
北陸本線の交流電化は、1957年(昭和32年)の10月1日に米原(正式には酒田駅と田村駅の間)と敦賀の間で完成しました。この石碑は、北陸新幹線の開通を目指し、観光資源にするためにクラウドファンディングを募り、JRの敷地内から駅前に移設されたものなのだとか。
また、この交流電化開通当日の貴重な映像を、NPO法人科学映像館さんがアップしてくださっています。昭和32年当時の敦賀の熱狂ぶりが伝わってきます。
■敦賀港線の廃線跡を歩く
さて、すっかり前置きが長くなってしまいましたが(笑)、2019年に廃止された敦賀港線の廃線跡を歩きたいと思います。1970年代の敦賀の航空写真から。南にある敦賀駅から、東にある山沿いの市街地の縁部をなぞるように線路がつながっていました。
新幹線のこの高架橋、「舞崎線路橋」という橋で、土木学会関西支部の技術賞を受賞した構造物です。
そして、その北陸新幹線の高架橋に沿う形に、廃線跡と思しき空間が出現します。
廃線跡と言っても、基本的には無断で立ち入ってはいけませんので、踏切など道路と交差する所を中心に見て回りました。
敦賀新港駅は、今でいう赤レンガ倉庫や鉄道記念館などがあったエリア。そちらにも線路が伸びていました。1975年の航空写真では、しっかり残っています。
前編はここまで。後編では、金ヶ崎駅跡付近のことや、赤レンガ倉庫、鉄道資料館など、敦賀港周辺や市内中心部の魅力をお伝えします。(※ここからが、マニアックでなく、「一般の人の」敦賀の街の楽しみ方、ともいうかも(笑))
■終わりに
新幹線開業に湧く敦賀駅から、敦賀港線の廃線跡を歩きました。新幹線開通だけでなく、敦賀は昔から鉄道の町として栄えた場所。交流電化発祥の地でもあり、とても興味深い見どころたっぷりのところでした。後半戦も、勿論とても面白い場所がありますのでお楽しみに。